太任胎教

周の太任が文王を妊娠したとき、決まり通りの味付けでなければ食べず、座る位置が正しくなければ座らず、邪な物を見ず、淫らな声を聞かず、傲慢な言葉を喋らずにいてその後文王を生んだ。文王は周の祖となった。君子がいうには、太任はよく胎教をしたと言えると言った。

孟母義方

鄒の孟軻の母の仇氏は、孟軻が幼いときに「東の家で猪を殺してたけど、どうするの」と聞かれ「あなたに食べさせるのよ」と冗談を言った。仇氏はすぐに嘘をつく事を教えてしまったと後悔し、猪の肉を買ってきて子供に食べさせた。最初、孟軻は墓の近所に住んでいた。孟軻が埋葬ごっこをして遊んだので、母はここは住むのに相応しくないと言って市場の近所に引っ越した。すると孟軻は物売りごっこをして遊んだので、母はここは住むのに相応しくないと言って学校の近所に引っ越した。孟軻は、俎豆を設けておじぎ、進退の礼儀を学ぶ遊びをしたので母はこここそ相応しいと住居を定めた。

蜀|欠m16217母躬績

魯の大夫の文伯が朝廷から帰ってきて母親に挨拶に行った。母親は機織りをしている所であった。文伯は「文伯の家では、まだ機織りが主な仕事なのですか」と言った。母親は「坊や、官職を得て家でも勤勉に励むということを聞いた事無いのかね。人は苦労をすれば考え、考えれば良い心を持てるけど、安楽な暮らしをすれば生活は乱れ、生活が乱れれば善を忘れる、善を忘れれば悪い心が生まれる。だから、豊かな土地には村がないのは安楽すぎるからで、痩せた土地の人が義を重んじるのは苦労しているから。私は、朝晩自分の身を正しく修める事を願っているけど、お前の安逸を見て、魯が滅びるのではないかと恐れているよ」と嘆いた。

陸母方肉

漢の陸續の母は、肉を切るときは必ず真四角に切り、葱を切るときは必ず一寸の長さに切る事を決まりとしていた。陸續が永平年間にある事件に連座して洛陽の監獄に繋がれた。ある日、陸續の母親がやってきて食べ物を差し入れた。陸續は差し入れの食べ物に向かって泣きながら「ああ、母が来たのか。会う事はできなかったが子供は母の教えを覚えています」と言った。獄吏はこれを聞くと陸續の母親の様を上書し、陸續は許されて會稽の戸曹の役人となった。

柳母丸熊

唐の柳公綽の妻の韓氏は貴族の間で名高かった。その家では歯を見せて笑わない事が家の決まりであった。柳公綽が節度使となり子供の伯呈が都の尹となり出世をしても、韓氏は染めていない絹を着て親の面倒を見ていた。金や璧で飾られた輿には乗らず、下女を二人だけ連れて竹の駕に乗るだけであった。いつも苦参、黄参、熊膽といった生薬を粉にしてまぜて丸め子供達に渡し、子供達が夜毎に勉学に励めるように助けた。

陶母截髪

晋の陶侃の母親の湛氏は、陶侃の友人の范逵が泊まりにきたときに家が貧しくて客に出せるものがなかった。母親は「お客さんをちょっと待たせておいておくれ。私に考えがあります」と言うと、髪の毛を切って市場で売って酒、肴を沢山買ってきて客を歓待した。また、自分の寝床の敷物を壊して客の馬に食べさせた。范逵は「この母でなければこのような子供は生まれないだろう」といい盛んに褒めた。この一件で陶侃は世間に名前が知られるようになった。

宗母反鮓

呉の孟宗が呉に仕え製塩場の役人となった。魚の寿司を作り母親に贈った。母親は「お前は製塩場の役人となったが塩を使う魚の寿司を作っている。どうして嫌疑を受ける様な事を避け、身辺をきれいにしようとしないのか」といい、そのまま寿司を返してきた。孟宗は母親の意見を心に留めて志しを新たにした。

崔母碓論

唐の崔玄日|韋3448の母の廬氏は、昔「子供達、役人は生きていくのも難しいぐらい貧乏なものです。貧乏な役人は好ましい身の持ち方で、お金が足りている役人は悪い事をしています。親戚の中に仕官しているものがいたら贈り物やお金をその父母に贈ると喜ぶことを知って、なぜ来たのかその理由を最後まで問わないのは道理にあっていません。盗賊と全く変りがないものです。」と言った。崔玄日|韋3448は母の教訓を守って中宗の時に宰相となった。清廉で、慎み深いことをもって知られた。


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