不廃公法

後漢の蘇章は字を孺文といい、順帝の時に冀州の刺史になった。時に、昔の知り合いが清河の太守となっていた。姦賊を調査していると清河の太守が該当した。そこで、酒席を設けて清河の太守を招くと、喜んでやってきて「人には皆天が一つあるものだが、私にはあなたと言うもう一つの天がある」と言った。蘇章は「今晩あなたを招いたのは古い知り合いであるあなたへの私恩からです。明日、刺史が姦賊の件で伺いますがこれは公法としてです」といい、翌日太守の罪を正した。冀州では、その風評を聞いて皆恐れた。

不縦私親

唐の張鎮周が舒州の都督の役人となった。舒州は張鎮周の故郷であった。張鎮周が郷里に着くと昔の家に酒や肴を買い込んで親戚、古い友人を招いて宴会を行なった。その宴会が盛んな事は役人になる前の様であった。贈り物の分け合いが始まると、張鎮周は「今日は張鎮周として古い友人と飲み明かす事ができた。明日からは舒州の都督で、人々の治安を守ることのみが役目となる。役人と、民間人の間には礼による大きな違いがある。もう、再びこのような宴会を行なう事はできない。これ以降、古い友人や親戚と言えども法を犯したら手心をくわえたりはしない。」といった。これ以降、舒州は治安が良くなった。

不肯俯項

後漢の董宜は字を少平といい、洛陽の長官となった。時の皇帝の妹である湖陽公主の家来が真っ昼間に殺人を犯した。家来は湖陽公主の家に逃げ込んだため役人は犯人を捕らえる事ができなかった。湖陽公主が出かけるにあたり殺人を犯した家来が馬車の御者として屋敷の外に出てきた。董宜は車を停めて馬を叩き、主人である湖陽公主の罪を地面に刀で書き連ねた。董宜は犯人を車から降ろして殺した。そこで、湖陽公主はすぐに屋敷に帰り皇帝に訴えた。皇帝は董宜を呼び出し湖陽公主に謝罪するように命令したが董宜は拒否した。無理に頭を下げさせようとしたが両手で地面を掴み、ついに首を下げる事をしなかった。そこで、彊項の勅令を出した。

不可揺判

唐の李元紘は字を大綱といい、雍州のの司戸となった。この当時、太平公主の権勢は天下をゆるがすほどであり、裁判は太平公主の意向に沿ったものとなっていた。あるとき、碾磑の所有権が太平公主と一庶民で争う裁判があった。李元紘は碾磑を一庶民の持ち物であるとして太平公主から返却させた。長史の竇懷正は非常に驚いて判決を曲げて太平公主の物とするように促した。ところが、李元紘は判決後に大書して「南山は動かすべし、判決は揺らすべからず」と言った。

不役耕民

唐の何易于は益昌の長官となった。徳宗の時代に地方巡察のために益昌に来ていた刺史の崔朴春が船遊びをした。農民を捜して船を引かせたが、なにやら騒がしい。崔朴春が見ると、何易于が笏を腰に挿して船を引いていた。崔朴春が驚いてその理由を問うと「百姓はこれから春の耕作を行い、さらに、蚕を飼いはじめます。やたらな労役に百姓を使うべきではありません。ところが、長官は暇ですから労役をする事に問題はありません」と答えた。崔朴春は自分が恥ずかしくなりさっさと帰っていった。

不顧男女

宋の富弼は忠義であった。仁宗の時に、契丹への使者となったが、自分の娘が死んだ事も、男子が生まれた事も話を聞いただけで手紙は封も切らずに燃やしてしまい「いたずらに心を乱すものだ」と言った。皇帝が富弼を召し出して枢密副使とした。担当した職務の改善点を十条以上、辺境の防衛策を十三条皇帝に上奏した。その後、洛陽に移り住んだが、妻に対する態度は賓客に対する様であった。毎早朝には祖先の祠にお参りし清廉であった。八十歳で亡くなったが中宗の廟庭に祭られた。


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