死甘心部

殷の王子の比干は紂王の叔父であった。紂王は道に外れた事を行い、炮烙の刑を作ったり、妊婦の腹を割いたり、冬に川を渡る人の脛を切ったりした。比干は「王は過ちが過ぎますので死んで諌めます。人々に何の罪がありましょうか」といい、象魏の門で伏して「天の運命は非常に難しくなってきています。王様、心を改めて行いを変えて下さい」と述べた。紂王は非常に怒り、「比干はよく聖人と言われているが、聖人の心臓には七つの穴があると聞いている。本当に穴があるか見てやろう」といい、比干を殺してその体を裂き、心臓を見た。

死猶屍諌

衛の史魚が臨終の際に息子を呼んで、「私は、賢人を勧める事も、無能を除く事もできなかった。このため、王を正しい道に導けなかった。私が死んでも礼に従った事はせずに、窓の下にほうり出しておいてくれ」と言った。その子はこの言葉に従い、史魚の死体を窓の下に置いておいた。君主の靈公が弔問に訪れ、窓の下に死体が置いてあるのを怪しみ、史魚の子供にその訳を聞いた。その子は史魚に言われた事を靈公に言うと、愕然として「私は、史魚の諌めに従わなかった。これは、私の過ちである」と言い、中堂で葬式を行い、賢臣の艸/遽5815伯玉を抜擢し、佞臣の彌子瑕を退けた。孔子はこの話を聞いて「昔に諌める人は死で終わったが、史魚のように死んでも諌めた人はなかった。」といった。

撃車爛脳

秦の禽息は秦の大夫であった。百里奚を推薦したが受け入れられなかった。そこで、禽息は脳みそが外に見えるまで頭を車に打ち付け、「私は生まれてこの方国の助けとなる様な事はできなかった。首を砕いて死ぬしかあるまい」と言った。君主の穆公は、この行為に感じて百里奚を登用し、ついには大臣として天下に覇を唱えた。

攀殿折檻

前漢の朱雲は字を子游といい、槐里の長官となった。成帝の時に張禹は皇帝の師として特別に扱われ、侯爵となった。皇帝は張禹を非常に尊重した。朱雲は皇帝に上書して「朝廷の大臣は皇帝を助けて、人々の利益を計る事なく、功績が無いのに禄を食んでいます。私は、武器係にお願いして斬馬の剣をお借りし、佞臣を一人切り殺し、他の大臣への見せしめにしたいと願います」と送った。皇帝は、「佞臣とはだれか」と朱雲に尋ねると「安昌侯張禹です」と答えた。皇帝は「お前は身分が低い癖に高い者を誹るのか。私が師として仰ぐ人物を辱めた罪は死罪に当たる」と怒っていい、御史に命じて朱雲を引きずりおろそうとした。朱雲は手すりにしがみつきついに手すりが折れてしまった。朱雲は「私は死んで昔の忠臣の龍逢や比干に会う機会が得られたと言うものだ」と言った。左将軍の辛慶忌は叩頭して「さっきの家臣はいささか強情で直情ではありますが、諫言は入れるべきです」と言った。皇帝は自分の意見をあまり述べなかったが、その後手すりを直す時になって、「この折れた手すりはそのままにしておくように」と言い直言の臣の記念とした。

車|刃6459輿輪

後漢の申屠剛は字を巨卿と言った。まっすぐな性格でかつて史鰌から人としての生き方を教わった。光武帝が遊びに出かけようとしたときに、申屠剛は隴蜀の反乱がまだ平定されてい無いので遊びに出かけるのは不適切であるとして皇帝を諌めた。皇帝は諌めを聞かずに遊びに出かけようとしたので申屠剛は頭を車の車輪の下にいれ止めようとした。そこで、皇帝もついに遊びに出かけるのを取り止めた。

引落衣裾

宋の陳禾は右正言となった。時の皇帝の徽宗は童貫を寵愛していた。陳禾は皇帝に童貫が権力をほしいままにしていることを弾劾した。徽宗は陳禾が言い終わる前に衣を払って立ち上がった。陳禾は皇帝の衣にしがみついてこれを引き最後まで話を聞くように願ったが、皇帝の服の裾が落ちてしまった。皇帝が「正言、お前は私の衣を破るのか」というと、陳禾は「私は自分の首が惜しいとは思わないのに、陛下は衣を惜しがりますな。」と言い、いよいよ熱心に弾劾を続けた。皇帝は「お前の様な忠臣がいるのであれば私に何の憂いがあろうか」といった。内侍が替えの衣服を持ってきて着替える事を勧めたが、皇帝は敢えて着替えずに直言の臣の記念とした。


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