公子捕鷂

魏の公子無忌の所に一羽の鳩が驚いた様子で飛び込んできた。鳩は、机の下に潜り込んだが、家の中に入り込んでいたはいたかに追い回され殺されてしまった。そこで、公子無忌は「鳩は危難を避けるために私の元にやってきた。これは私の責任である」といい、近所にいたはいたかを二百羽捕まえた。公子無忌が、剣を撫でながら「誰が私の所に逃げ込んできた鳩を殺したのか。鳩を殺した者は切り捨ててくれよう」と言うと、一羽のはいたかが頭を低くして前に出て、伏せた。そこで、公子無忌はこのはいたかを殺し、残りのはいたかは全て放した。これ以降、天下に知られるようになった。

文公驅魚|王<口口口口7555

唐の韓愈は字を退之といい、憲宗皇帝の時に國子博士となった。仏舎利を受け入れるにあたり、皇帝に諫言し疎まれて潮州に左遷された。潮州の町の東に、鰐渓と言う所があり、鰐が非常に多かった。鰐は四本足で身が黄色く、尾は剣の様であり、その形は大スッポンに似、口には鋭い歯が鋸の歯のように生えていた。常々人を襲い食べたりもしていた。鹿が鰐の群れなす淵の崖の上を歩くと、大声を上げて天地を振るわし、鹿は怯えて水に落ち、それを食べる事もあった。韓愈が何かを書き付けて、水中に投じ、これを祝した。その夜、暴風雨となり、雷が鰐渓で鳴り響いた。数日が立つと、鰐渓の水は全て無くなり、西へ六十里の所に移ってしまった。これ以後、潮州では鰐の害はなくなり、韓愈は再び朝廷に入り吏部侍郎となった。潮州の人たちは、韓愈を祭るための祠を建てた。

宋均去虎

後漢の宋均は建武年間に九江の太守となった。九江には虎が多く、人々は落とし穴を設けて虎を退治しようとしていたが虎の数は増えるばかりであった。宋均は、「人々が害を受けるのは残酷な役人がいるからである」と言い、欲張りで自分勝手な役人を罷免し、忠実な善人を推挙し、落とし穴を埋めさせた。その後、虎は連れ立って河を渡ってどこかに去っていった。

童恢殺虎

後漢の童恢は不其の県令となった。不其には虎がいて人々に害をなしていた。童恢は虎を捕まえようとし、二匹の虎を捕まえた。童恢は虎に「王の法律では人を殺した者は死刑である。もし、お前が人を殺したのなら頭を垂れて罪に服せ。殺していないのなら吼えて訴えよ」と言った。すると、一頭の虎は頭を垂れ、もう一頭は童恢を見て低く唸った。そこで、童恢は唸った方の虎を放し、頭を垂れた方の虎を殺した。これ以降、人々が虎の害にあう事は無くなった。

虎北渡河

後漢の劉昆は字を桓公といい、江陵の長官になった。江陵では毎年の様に火災があったが、劉昆は火に向かって叩頭をすると、たちまち雨が降って風が止んだ。その後、弘農の太守となったが山道に虎が多く旅行にも差し障りがあり通行できない有り様であった。劉昆が政治を司るようになって三年、善政が行われ、ついには、虎は自分の子供を背負って河を渡りどこかへ行ってしまった。皇帝は、これを珍しい事として、劉昆を召し出して光禄勲の官職とした。

蝗不入境

後漢の戴封は字を平仲といい、西華の長官となった。西華には、汝郡と頴郡の二つの郡があり蝗の害に苦しんでいた。ところが、田|分m21766郡には蝗が入っていく事はなかった。ある時、督郵の役人がやってくると、とたんに蝗がやってきて、役人が去ると蝗は去って行き境界に立ち入る事はなかったので珍しい事と思われた。その年、日照りが続いたが雨乞いの祈りも空しく全く雨が降らなかった。そこで、戴封は薪を積み上げた上に座り火をつけさせた。そのとたんに大雨が降り出した。

挿竹生笋

宋の冦準は、雷州に流された。道中公安県に入り、翠嶺を過ぎた。冦準は、竹を切って祠の前に挿し、祈って言った。「もし、私の心に朝廷に恥じる様な事があればこの竹は枯れてしまえ。もし、恥じる様な事が無いのならこの枯れ竹が再び生えろ」果たしてその竹は再び生えた。その後冦準は雷州で死んだが朝廷に許されて葬り直す事となった。棺が公安県を通ると、人々は棺を迎えて竹を切って地に挿し、紙銭を燃やして棺に掛けた。先に植えた竹は林となるほど成長し人々はこれを神様として祭った。

鷄7088息爭

南宋の傳玉|炎4420は字を廷珪といい、山陽県の長官となった。二人の農夫が鷄の所有権を争っていた。傳玉|炎4420は、農夫にそれぞれいつも何を食べているかを聞いた。一人の農夫は粟を食べているといい、もう一人の農夫は豆を食べていると言った。そこで、鷄を二つに裂くと中から粟が出てきた。そこで、豆を食べていると言った方の農夫に有罪の判決を下した。山陽県ではその神の様に賢い事を口々に言いあった。

斷蛇異政

大明の陳祖は洪武年間に明経を以て推薦されて繁県の丞を授けられた。陳祖が道で一人の老婆に出会った。老婆は非常に泣いていたので陳祖がその訳を問うと、「夫と、子供はとうに死んでしまい、孫が一人残ってるだけでした。でも、昨晩大蛇がその孫を飲み込んでしまいました」と言った。陳祖は老婆の言った事を詳しく蛇に伝え、期日までに出頭するように通知した。期日がくると、はたして、多くの蛇が法廷にやってきて陳祖の裁判を待った。陳祖は蛇に説諭して罪がないと思う蛇は去るように告げると、一匹の大蛇が地面に臥したまま残った。そこで、剣を取り出して大蛇の首を切り落とした。人々はこれ以降珍しい事だとして祠を作って陳祖を祭った。

祷両絶食

大明の王叔英は若くして孝行で聞こえた。漢陽県の知事となった。昔、日照りがあったときに「人々が食べ物がなくて苦しんでいる。父母のために私が食べる事はできない」といい、絶食した。すると、天に異変が起きて三日も経たないうちに大雨が降った。大雨がやまない事をみて、再び祈ると、すぐに晴れ渡った。真心が天に通じる事この様であった。後に翰林修撰となり、さらに、廣徳の大守となった。永樂靖難のときに、反乱兵が揚子江を渡ったと聞き、沐浴して衣服を改めた後、詩を作り首をつって自殺した。反乱兵が入ってきたときには、その妻も首を吊っており、二人の娘も井戸に身を投げて死んだ。一門はこのように忠節であった。


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