召父杜母

漢の召信臣は字を翁卿といい、南陽の太守となった。人々のために利益になる様な事を考え、自ら農業と養蚕業を教え人々に勧めた。用水路を作り灌漑を広く行った。人々はそのおかげで貯えが増え余りも出るようになった。人々は召信臣を「召父」と呼んだ。その後、後漢の杜詩、字は公君が南陽の大守となった。ため池と堤防で治水を行い、広く田圃を開墾した。郡内の人たちは活気にあふれ召信臣と並び称して「前には召父があり、後には杜母がいる」と言った。

命子賈子

漢の賈彪は桓帝の時に新息の長官となった。人々は貧しく自分の子供も養えない有り様であった。さて、新息の町を囲む城の南側には盗賊が住んでいて通りかかる人がいると強盗殺人を行っていた。城内には子供が養えずに殺そうとした婦人がいた。賈彪が裁判にかけると、役人は「城の南側に追放するべきです」と言ってきた。賈彪は怒って「盗賊が人を殺して物を奪うと言うのは決まりきった事だ。母子ともども残すようにしなければ天に逆らい、道に逆らう」といった。賈彪は婦人の罪を数年子供と別れさせる事とした。子供達は賈彪が養い、その子供の数は千人を超え、皆名付けて賈子と言った。その後、この話を聞いた盗賊達は皆自首してきた。

儲水防火

後漢の庶范は字を叔度といい、蜀郡の太守となった。蜀郡には防火のために夜には何の作業もしてはならないという規則があったが、庶范はこの規則を削除した。但し、防火のために水を貯えておく事を厳命した。このため、人々は「廉潔な庶范様がいらっしゃって、暗くなったのがなんのその。火が禁じられないので皆安心して仕事の励める。昔は短い着物、今は五枚の着物」と歌った。

蒲鞭示辱

後漢の劉寛は南陽の太守を拝命した。温厚で思いやりのあり、人の過ちを過度に責めなかった。民や役人が法に触れる様な事をしたときには、鞭の代わりに蒲の穂で叩き、罪がある事を悟らせるだけであった。地方に行く度に老人を見舞い、自分の慰めとしては農業の書物を読む事であった。少年に教育する際には孝行と兄弟の思いやりを教えた。人々はその徳に感動し皆感化された。

勸耕致富

後漢の張堪は字を君游といい、漁陽の太守を拝命した。理由のない賞罰は決して行わず人々は皆楽しんで生活していた。狐奴の土地に田圃を八千頃拓き、人々に耕作を勧めた。人々は豊かになり、蓄えが積み上がった。百姓は「桑には無駄な枝がなく、麦の穂は二つに分かれ、張君の政治のおかげ。生活は楽しく、支えなんていらない」と歌った。治める事八年、匈奴が国境を侵す事はなかった。

陳倫致孝

後漢の仇覧は字を季智といい、蒲亭の長であった。蒲亭には陳元という人がいたがその母が「家の息子は不孝者です」と仇覧に告げた。仇覧は「このような不孝者がここにいるのは私の教化がまだ及んでいないからである」といい、自分で陳元の家に行き、人の道と孝行に付いて諭した。陳元はたちどころに心を入れ替えて孝行息子となった。

下涙感諭

北齊の蘇瓊は字を珍之といい、清河の太守となった。清河には乙普、乙明という兄弟がいて長い事田の所有権を争っていた。お互いに証人を立てあい百人以上にもなった。蘇瓊は乙普、乙明の兄弟を呼び、諭して言った。「世の中で兄弟ほど得にくい物はなく、田地は求めやすい物である。たとえ田を得られたとしても兄弟を失しなったら心中はいかがであろうか」と言うと涙を流した。証人達ももらい泣きをし、乙普、乙明の兄弟は土下座して反省をした。その後十年の間同じ家に兄弟は暮らした。

流涕感悟

唐の韋景駿は貴卿の長官となった。貴卿には、お互いに訴えあう母子がいた。韋景駿は、「私は幼い頃に父母をなくし、常々その事で心を傷めていた。お前は、親があるではないか。孝行を忘れたのか。もし、こうして教えても改心しないのならこれは私の罪である」というと、泣きながら孝経を渡し、その大義を習わせた。その子は心を改め、孝行な子となった。

百銭齎送

後漢の劉寵は字を祖榮といい、會稽の太守を命じられた。劉寵は煩雑な法律を廃止し、簡単な物とした。そのため、郡中は大いに感化され治安が良くなった。その後朝廷に入るにあたったときに、若耶山の谷間から五六人の老人が、各々百銭を送って来た。劉寵が「どうしたのだ」と聞くと、老人達は「私たちは深い山の中で生まれ未だに郡朝がどういう物か知りません。他の太守の時は、役人が取り立てに来て人々は夜も安心できない有り様でした。劉寵様がいらっしゃってから、犬が夜吠える事もなくなり、村里で役人を見る事もなくなりました。年取ってからこの様な聖明な方に会うことができました。聞く所によれば、この度、この郡を捨ててどこかに去るとか。そこで、ここに劉寵様のために餞別を持ってきたのです」と言った。劉寵は、その中から一銭だけを受け取り、多くは受け取らなかった。

二邦爭奪

宋の杜衍は字を世昌といい、明敏でしばしば疑獄を裁いた。人々は杜衍を「神知」と呼んだ。乾州の知事となって一年に満たないうちに、上司の安撫使の役人が杜衍の働きぶりを見て、鳳州の知事に任命した。そこで、乾州と鳳州の人々は、杜衍がどちらの知事であるかを争った。乾州では「乾州の知事であるのに、そちらが奪った」といい、鳳州では「今はこちらの知事であり、何を言うか」と言った。


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