脱驂賻喪

孔子は名前を丘、字は仲尼といい、魯の襄公の時代の庚戌の年の十月二十一日に生まれた。三歳のときに父親が亡くなった。眼はくぼみ、額は広く出っ張り、背が高く九尺六寸もあり、世間で言う大聖人の容貌であった。衛に行ったとき、昔泊まったことのある人の家で葬式があるのに出くわした。孔子は、哭泣して哀悼の意を表わし、弟子の子貢に命じて馬車の予備の馬をはずして供物として渡した。

發棠賑粟

孟子が齊にいたとき、齊の国は大飢饉に襲われていた。孟子は齊の王に「凶作の年で王様の民は飢えており、年寄りは溝で転がって死んで、働けるもののうち他の国に逃げ去ってしまっている者が数千人も出ている有り様です。棠邑の倉庫を開いて、貯えを放出して、貧しい人たちを行きのばさせる様お願い致します」と言った。

黔敖設食

齊が大飢饉に襲われたとき、黔敖は人民を救済するための役人であり、道ばたに救貧所を設け、食料の提供を行った。ぼろぼろの着物で、履物も破けた飢えた人がその有り様をぼーっと見ていた。黔敖は左手に飲み物を持ち、「さ、来て食べなさい」というと、その飢えた人は眉を上げて感謝の意を表わした。

馮驩焚券

齊の馮驩は孟甞君に薛の国での借金の取り立てを命じられた。馮驩は、「これは、何を取り立てるのかね」と聞くと、孟甞君は「私の家も貯えが減ってきたのでね」と言った。馮驩が薛に着くと借金をしている人たちを集め、孟甞君の命令であるとして、借金の証文を全て出させ、これを全て焼いてしまった。薛の人は孟甞君の恩に大いに感謝した。馮驩が帰ると孟甞君は「取り立ててきたかね」と聞いたが、馮驩は「殿様の蔵にはいっぱい物がつまってます。少ないのは義のみです。殿様の借金の証文は全て焼き捨ててきました。そのかわり、義を取り立てて帰りました。」と言った。孟甞君は「よし」と言った。その後孟甞君が大臣を辞めて薛に帰ると、薛の人は孟甞君を薛の王様に推戴し、死ぬまで薛に留まった。

(メ/広)|邑6601超散銭

(メ/広)|邑6601超は若い頃から顔だちがよく、義侠を好み、晋の末に臨海太守となった。父親の心|音3032は金を貯めること数千万銭であったが、(メ/広)|邑6601超はその金を全て親戚、旧友に使い果たした。桓温に参軍となったが、(メ/広)|邑6601超は髯が多かったので都では「髯参軍」と呼んだ。

世威散粟

隋の司徒陳公は字を世威といい、江寧の反乱軍十万人、東陽の賊二十万人を平定した。このことを皇帝は喜んで、陳公に宮女二十人、馬五頭、絹の束五百、粟千斛を与えたが、陳公はこれらを全て親族と貧民に与えた。自分の金銭に対する態度も同じようであった。死んだ後に烈帝とし、廟を建てて祭った。その後、曹郡、陳州などの地方が飢饉に襲われお互いに食べあうような事態になったとき、陳公の霊が民を救おうとして、数万斛の穀物を与えてその代価を要求しなかった。このおかげで曹の人々は生き延びることができた。陳公の跡継ぎの歳豐の所に、曹の人々がお礼と返済の穀物を持ってきて、陳某を尋ねたが、そのときにはじめて、曹の人々は陳公が既に亡くなっていたことを知った。陳公の慈愛の深さは生きているとき、死んだ後もかわらずこのようであった。

資銭助喪

唐の郭震は、字を元振といい、大きな志を持っていた。十六歳のときに大学の学生となった。家は金持ちであり、学資として四十万銭以上を与えていた。さて、喪服を着た人が門を叩いて言うことには、「五年にわたって葬式を出すことができませんでした。お金を貸していただき、葬式を上げたいと思います」と言われた。郭震はお金を貸して、惜しむ様な所は無かった。同じ場所に住んでいた薛稷趙彦がこれをいぶかしむと、郭震は「人の大事に何をいぶかしむことがあろうか」と言ったので、皆感心した。十八になったときに、進士となり、吏部尚書に上り詰めた。子孫も皆官職に就いた。

麥舟助喪

宋の范純仁は字を堯夫といい、昔、東呉に行き、領地から麦五百斛を取り立てて船に乗せて帰る道すがら石曼卿に会った。石曼卿の言うことには「ここで埋葬したが、浅いところであった。ちゃんと埋葬してあげたいがお金がないので埋葬できず、もう三年も帰ることもできない」と嘆いていた。そこで、范純仁は積んだ麦ごと石曼卿に与え、自分は馬一騎で帰った。家に着くと父親に帰着の挨拶をした。父親は「東呉では知り合いに会ったかい」と聞かれ、范純仁は石曼卿に会い、葬式をあげられずに三年も丹陽に留まっていて、郭元振の様な人もいないことを告げた。父親は「どうして舟に載せた麦を与えなかったのだ」と聞いたが范純仁は「既に差し上げておきました」と返答した。後に、進士となり、中書侍郎の位にまで上がった。

代銭不言

後漢の陳重は、字を景公といい、孝廉に推挙された。官舎にいたとき、同じ官舎に借金を元利合わせて数十万銭背負い込んだ人がいた。借金の督促が来ていたが全く払える見込みもなかった。陳重はひそかに借金を代わって返済しておいた。後に、借金をしていた人がこのことを知り、感謝を表したが、同姓同名の別人ですよと言ってついに自分が借金を返済したことを言わなかった。

焚券不索

宋の蘇東坡は、嘉祐二年に陽羨、蒋頴叔と、連名で進士となり、瓊林で宴会をした。陽羨と気があったので一緒に住もうかと言うことになり、家を一区画五百金で購入した。さて、まさに引っ越そうかとする時に、一人の老婆が村落で泣いているのを聞いた。泣きながら言うには、「わたしゃね、百年以上も住んでいた家を馬鹿息子のために売られてしまったよ。これからどこに住めばいいんだい。」この老婆の住んでいた家はまさに蘇東坡が購入した家であった。そこで、蘇東坡は証文を取り出してその場で老婆に返却して燃してしまい、代金も要求しなかった。その後陽羨の家に上がり込んで功績を上げて没した。

克城不殺

宋の曹彬は、太祖に命じられて江南に戦役に行き、金陵を攻め、その城をもうすぐ破れるところまで来た。その直後、病気であると称して一切外の事を見なかった。他の将達が心配して見舞いにきたが、曹彬は「私の病は、薬の効くものではない。ただただ、城を破ってもみだりに人を殺さないことを願うだけだ。そうすれば、自然と治る」と言った。この言葉を聞くと、将達は、香を焚いてみだりに殺さないことを誓った。翌日、金陵の城は陥落したが、城の中は混乱もなく安泰であった。こういう事だから、江南から帰る船にはただ、図書と衣類、食べ物があるだけであった。

活濟流民

宋の富弼は字を彦國といい、青州の知事であった。黄河の上流で洪水があり、人々が流民となって青州にやってきていた。富弼は、流民に耕作を勧めて十五万斛を得ることができ、これらを官の倉庫にどこの州からやってきた人が耕作したかに応じて分けて納めた。また、公私の宿舎を十万間あまりを解放してその人たちを住わせた。薪や水の便を計ってやり、川や山を生産のために使いたいと言う者がいれば許可を与えた。亡くなった人たちのためには、大きな塚を作りそこに葬った。翌年、麦が豊作になると、流民達にその遠近に応じて食料を渡してやった。このおかげで、五十万人以上の人が生き延びることができた。時の皇帝の世宗は、これを聞くと富弼を禮部侍郎に取り立てた。

給還虜女

宋の曹彬は、乾徳の初めに神武将軍となって、蜀を討伐に行き、成都を陥落させた。配下の将に婦女子を捕虜に捕った者があったが、これらの婦女子を全て一つの建物に収容させた。そして、配下にこれらの婦女子は皇帝に進呈するのであるから手を出さないように戒めた。その裏で密かに婦女子の親を訪ね無傷で返した。親がいない者は礼に法って嫁がせた。その仁徳はこのようであった。

載還孤壻

宋の姚雄が初めて軍人になったときに、地方の砦を守る一地方官の娘と婚約をした。その後、その地方官は病気となり死んでしまい、妻子はどこかに落ちぶれていなくなってしまった。姚雄が辺境の警備の任務についている時に、闕に報告に向かった。たまたま一人の老婆が子供を連れて餅を売っているのを見つけた。その有り様を見ると、元は役人の家の出の様な風であった。どこから来たのかを尋ねると、老婆は、「夫は山の砦を守る役人でしたが残念ながら死んでしまい残された子供と共に家を追い出されてしまいました。昔は、姚とかいう姓の人と婚約もしたのですが、零落困窮してしまい、いまその人がどこにいるのかさえ分からなくなりました」と言った。言い終わると、嗚咽しながら泣いた。姚雄は「それは私のことだ」と言った。娘は他の人に嫁ぐこともなく、日々婿がやってきてくれるのを待っていた。父親が亡くなったからと言って、他に人に嫁いだならば仁と言えるだろうか。ついに、老婆と娘を任地に連れて帰り結婚をし、安息に暮らした。


souketsu@moroo.com