不受堯禪

巣父は堯の時の人であった。山にいて、木をもって巣を作って住んでいた。堯は天下を許由に譲ろうと言った。許由が巣父にこのことを告げると、巣父は「お前は名誉を取るんだね。もう友人ではないな。」といい、胸を叩いて去っていった。その後再び堯が許由を招いたが、許由は汚らわしいことを聞いたとして、冷たい水で耳を洗った。そこへ巣父が子牛を連れてきたが、牛がけがれると言って許由が耳を洗った上流で水を飲ませた。

不受舜禪

善巻は昔の賢人である。堯は昔、善巻を師としていた。堯が死んだ後、舜は天下を善巻に譲ろうとした。善巻は、「日が昇れば野良仕事をして日が沈めば帰って休む。天と地の間で逍遥して心のままに生きる。どうして、天下を取って皇帝になったりするもんだろうか。お前がお前のことをよく分かっていないのが悲しいな」といって、ついにそこを去って深い山に入ってどこに行ったかも分からなくなっった。

不爲虞帝

蒲衣子は舜の時の人であった。人徳があり天の理に従って生きていた。八歳のときに舜は蒲衣子を師としていた。後に、舜は天下を善巻に譲ろうとしたが、蒲衣子はこれを受けないで逃げてどこかへ行ってしまった。

不守楚政

老莱子は楚の人であった。貧しくとも心安らかであり、道理を楽しんでいた。粗末な家に住み、水を飲んで豆を食べる様な貧乏な生活であった。楚の国王が駕篭にのって老莱子の門まで訪ねてきて、「あなたは、こんな所に住むのではなく、一国の宰相となる人物です。私はできればあなたに宰相になってもらいたい」と言った。老莱子の妻が木こりから帰ってきて老莱子に言った。「国から俸禄を貰う身分となるとは、国にいつ死刑にされても文句のいえない身分になることですね。あなたにはそんなことはできませんよ」老莱子は、畚を投げ捨てて妻と一緒に江南に逃げ去り道家の書物、十五編を書き残した。孔子は、この話を聞くと、居住まいを正した。

加足帝腹

後漢の嚴光は字を子陵といい、若い頃後の皇帝の光武と遊び、学んだ。光武が皇帝の位に即くと、嚴光は名前を変えてどこかに隠れてしまった。光武帝は嚴光の賢さを惜しみ、人相書を国中に配って嚴光を探させた。薺の国から、それらしい男性が羊の衣を着て釣りを沢でよくしているとの報告があった。光武帝は安楽に移動できる車を遣わしてその男性を招いた。男性は三度は断ったが、ついに断りきれず招きに応じた。光武帝はその日のうちに嚴光の元に行った。ところが、嚴光は寝そべったまま起きなかった。光武帝は、嚴光の腹をさすった。嚴光はその様を見て目を見張っていった。「私の決心は堅いのにどうしてそこまでするのか」光武帝が嚴光の脇に一緒に寝ると、嚴光は足で光武帝の腹の上を触った。翌日、占星術の役人が「異様な星が皇帝の御座を犯すのを見ました」と奏上した。光武帝は、笑って「古い友人と一緒に寝ただけさ」と言った。嚴光を諫議太夫の位に任命したが、嚴光は辞退し、富春山に入って耕作生活に入った。後の人は、嚴光が釣りをしたところを嚴陵瀬と名付けた。

遺安子孫

後漢の广<龍7757公は、生まれてこの方街に行ったこともなかった。广<龍7757公は、夫婦仲がよく、お互いに尊敬しあうこと客に接するようであった。荊州の長官の劉表は、广<龍7757公を表敬訪問した。广<龍7757公は畑の畝を耕し、妻子はその前の草取りをしていた。劉表は「先生はどうして畑仕事をして、俸禄を貰おうとしないのですか。子孫に何を残そうと思っているのですか」と尋ねた。广<龍7757公は「世間の人は子供に富をのこそうとするが、それは、子孫に危険を残すような物だ。私は、子供達には安逸を残すつもりだ。残す物は違っていても、子孫に残すと言う点では同じだ」と言った。劉表はこの言葉を聞くと感心して帰っていった。

不見督郵

晋の陶潛は、字を淵明といい、また、元亮といった。家の周りに柳の木を五本植えて、自ら五柳先生とも名乗った。好んで本を読み、また、詩を作り、金銭には執着しなかったが、彭澤令の役人となった。あるとき、郡が督郵を遣わした。駅の役人は、陶潛に正装して応対に当たるように言ったところ、陶潛は「私は、わずか五斗の米を俸禄としてもらうばかりに腰をかがめて田舎の子供に接することなどできやしない」といい、役人のしるしの印綬を返却して役人を辞任した。「三本の小道の脇に、松や菊が風や日の光を遮る物もなくゆらゆらゆれている。酒の瓢箪は空になることもありはするが、心安いものだ」

不設釣餌

唐の張志和は字を子同といい、山水画が得意であり翰林院にいたことがあった。後に、江湖のそばに住み、自ら煙波釣徒と称した。毎日釣り糸を垂れてはいたが餌はつけていなかった。志しが魚にあるのではない事を示すためである。陸羽が嘗て「だれと行き来しているのか」と聞いたことがあったが、「天地の間を家として、明月を伴に四海と共にいる。未だかつて誰とも別れたことはないがどうして往来する必要がある」と答えた。張志和の才能を惜しんで憲宗皇帝が似顔絵を持たせて江湖まで尋ねていったが、会うことはできなかった。


souketsu@moroo.com