裘公鄙金

呉の披裘公はどこの人かはしらない。ある夏の日、くたびれた皮衣を着て薪を売るために道を歩いていった。路上に誰かが落とした金塊があったが披裘公は振り返りもしなかった。延陵の季子がこれを見て披裘公を哀れんで言った。「薪を背負っているぐらいの貧乏な人がこの金塊を拾うべきだ」披裘公は笑って、「五月に皮衣を着るのは薪を背負うためで金を拾うためではないよ」と言った。季子は驚いておじぎをして名前を聞いた。披裘公は「名前に何の意味があるんだい」と言って答えないで去っていった。

羊子捐金

魏の樂羊子は、道に落ちていた金塊を拾って帰った。家に帰り妻に金塊を渡すと、妻は「私はこのように聞いています。志のある人は『盗泉』と名のついた泉の水は名前が悪いので飲まないし、清廉な人はその音が悪いので『嗟來』を食べないと。ましてや、道に落ちているものを拾って自分のものにする様な汚らしい行いをするものでしょうか」と言った。羊子は非常に恥ずかしくなり金塊を荒野に投げ捨てた。

金還葬主

後漢の王心|屯2945は、宿屋で一人の書生が病で寝ているのを見かけ、かわいそうに思い書生の世話をした。書生は「私の命ももう長くはない。死んだら葬式を上げてくれないか。ベッドの下に金塊が十斤あるから、これをあなたに贈ろう。」というと、名前を告げる前に息絶えてしまった。金塊を葬式の費用とし、あまった金塊は棺桶の下に置いておいたが知っているものは誰もいなかった。その後何年かたち、王心|屯2945はその宿場の長となった。着任の日、宿場に駆け込んでくる馬がありなぜか王心|屯2945になついた。そこで、王心|屯2945が馬に乗ると、馬は洛陽のある家に到達した。家の主人は「私の息子の金彦は都にいくと言って出てったきり行方知れずであるが、連れていった馬が帰ってきた」と言った。王心|屯2945が書生の風貌や、葬式を行ったことを告げると主人は大いに驚き大声で泣いた。「ああ、それは私の息子だ。非常な恩を受けながら今までなんの恩返しもできなかった。感謝の印にこの金塊を受け取ってください。」といったが、王心|屯2945は受け取らなかった。

帶還婦人

唐の裴度は字を中立といった。昔、人相見に「お前は決して偉くはなれないだろうし、餓死する」と言われた。あるとき、香山寺に遊びに行ったところ、一人の女性が先に来ていて、寺の欄干の上に布包みを置いていた。お祈りが終わり帰るときにその婦人は包みを忘れていってしまった。裴度は気付いて追い掛けたが追い付かなかった。そのまましばらく待っていたが、女性は中々来なかった。翌朝早く寺に再び行き、待っていると女性がやってきた。裴度が問うと、「私の父が無実の罪で投獄されました。昨晩人から玉帯一つ、犀帯を二つ借りることができまして、これを役人への賄賂に贈ってなんとか釈放してくれるように頼むつもりでした。ところが包みをなくしてしまい、父は逃れるすべはないのかと思っていたところ、幸いにも、包みが戻ってきました」と泣きながらいった。帯のうち一つを裴度に渡そうとしたが、受け取らなかった。その後、再び人相見が裴度を見ると大いに驚いて「あなたには陰徳があったに違いない。以前見たときとは万里も違っている。」と言った。貞元初年に進士に合格し、四つの国の大臣となった。最後には、晋の大名となり、子供達も皆偉くなった。

得金還主

宋の寶禹鈞は三十になっても子供に恵まれず朝晩延慶寺に行き焼香をして祈った。さて、帰りがけに寺の後ろの階段のそばで、銀三百両、金三十両を拾い持ち帰った。翌日朝早くから寺に行き落とし主が現われるのを待った。ほどなく一人の人が涙を流しながら走ってくるのが見えた。寶禹鈞がその理由を聞くと、「父が死罪に当たる罪を犯してしまいました。父の罪を金銭で購おうと、借金をしたのですが、昨晩、ここで知り合いと会い、酒を飲んでしまい、お金を忘れてしまいました。もう父の釈放金を払うこともできません。」と言った。そこで、寶禹鈞がそのことが本当かどうかを確かめ、昨晩拾った金に手持ちの金を加えて返した。その夜、夢に祖父が出てきて「お前は三十になるが子供がいなかったし、寿命も短かった。この度、陰徳があったので、寿命を三十六年のばし、五人の子供が授かるであろう。」と言った。その後、左諫議となり、五人の子供が生まれ、儀は禮部尚書に、儼は禮部侍郎に、侃は左補闕に、称は参知政治に、僖は起居郎に出世した。

得釵還吏

宋の彭思永は字を季長と言った。八歳の時、学校に朝行く途中で金のかんざしを門の外で拾った。拾った場所で黙って座っていると、暫くしてその場所に来てうろうろしている役人がいた。彭思永は役人にうろうろしている訳を問うと、やはりかんざしを落としたものであった。かんざしの特徴を聞くと、拾ったかんざしと全く同じであったので、彭思永は落とし主だと信じてかんざしを出して返した。役人は感謝して数百銭を渡そうとしたが、彭思永は笑って受け取らず「もし私がお金が欲しかったのなら、かんざしを持っていくよ。かんざしの方が数百銭の何倍もするからね」と言った。役人はびっくりして去っていった。

舉金還商

宋の留台となった劉は幼い頃は自分で食べていくのもままならない貧乏であった。あるとき、泉州に行き、司戸の徐に面会し仕えることにした。司戸が他の場所に転勤になったので、後を徒歩で追い掛けたとき、水|章4047泉に着いた。風呂屋に行くと、金十袋を拾ったが、病気になってしまい、そのまま堂の中で臥せってしまった。翌朝早く、号泣している人が来た。ないている理由を聞くと、「商売を八年行いやっと八十五斤の金を稼げました。ところが、昨晩ここで酒を飲んでふらふらと北へ三十里ほど行ったところで金を忘れていることに気付き慌てて戻ったのですが、金がないので泣いているのです」と言った。そこで、劉は金を商人に返却した。商人は感謝の印に数片の金を渡そうとしたが劉は受け取らなかった。郷里に戻ると「お前は食っていくこともできないのになんで金を拾って帰ってこなかったんだ。」と口々に責められたが、劉は「他人の物をかすめ取って自分の物にしたらこれは自分の心をだますことになる。必ず災いがあるに違いない。ましてや、商人が苦労をして稼いだ金なんか盗んだら、盗まれた商人は故郷に帰ることができずに死んでしまうに違いない。そうしたら必ず自分に害がある。だから返して自分の身を守ったのだ」というと、故郷の人は皆感心した。その後、劉は科挙に合格し、西京の留台となり五十年の間の子孫のうち役人になった者は二十三人に及んだ。

北珠還旅

宋の林積は若い頃京師に向かう途中蔡州に着いき、宿屋に泊まった。ベッドに寝ると背中になにやら当たる物があることに気付いた。取り出してみたところ、布の袋であった。袋の中には錦の袋が入っており、その中には、北珠が数百入っていた。翌日、主人にここに誰か泊まったかと尋ねると、潯陽の周仲津が泊まったと言った。林積は「この人が必ずまた訪ねてくるに違いないから誰か訪ねてきたら私の名前を教えておいてくれ。」と頼みました。数日後周仲津がやってきて珠の事を尋ねたので、宿屋の主人は事の次第を話して林積の居所を教えた。周仲津は林積を訪ねた。周仲津が言う珠の数と手元の珠の数が一致したので珠を全て周仲津に返却した。周仲津は、珠を取り分けて林積に渡して感謝のしるしにしようとしたが、林積は受け取らなかった。周仲津はその心意気に感じて珠数十個を寺に納めて林積の加護を祈願した。その後、林積は官吏となり大中大夫となり、子供の徳新もまた吏部侍郎の役人となった。

還所付金

宋の范仲淹は若いとき貧乏であった。昔、一人の仙術使いと知り合いになったが、その仙術使いが重い病気になったとき、人に范仲淹を呼びに行かせた。仙術使いは「私は水銀を銀に変えることができる。私の子供は幼くてまだなにもできないが、あなたに子供を預けて面倒を見てもらいたい」と言って、水銀を銀に替えたものを一斤渡した。范仲淹はその銀を懐に入れると、辞去した。仙術使いが死んで十年余りが過ぎた頃范仲淹は進士に合格し、諫官となった。その頃にはもう仙術使いの子供も大きくなっていたので、范仲淹は子供を呼んで「お前の父親は仙術使いであった。お前のことを心配して死んで行ったが、そのときに養育費としてこれを私に預けていった。今、お前は大きくなったのだから、これをお前に返そうと思う」といって、その銀一斤といきさつを書いた紙をその子に与えた。

還所付産

宋の張孝基は金持ちの娘と結婚した。金持ちには息子が一人いたが親に似ず家出をして出ていってしまってた。金持ちが病気になって死んでしまうと、財産は全て張孝基に渡された。張孝基が葬儀を上げて数年後その義弟が道で乞食をしているのを見かけた張孝基は哀れに思い連れ帰って庭の掃除の仕事を与えた。その子は非常に熱心に与えられた仕事をやっていたので、張孝基は「お前は倉庫の管理ができるか」と聞いた。その子は「掃除の仕事を頂き、食べていけるようになりました。望んでもいなかったことです。ましてや、倉庫の管理の様な仕事とは」と言ったので張孝基はすぐに倉庫の管理の仕事をやらせた。その子はまじめに丁寧に仕事を行い、物と金の出入りに過不足はなく怠けたりもしなかった。張孝基は義弟が心を入れ替えてまじめになったのをみて、ついにその父の財産を引き渡した。その子は家を治めることにまじめで地元の名士となった。その後、張孝基が亡くなった後張孝基の友人数人が嵩山に遊びにいくとたちまちのぼりが見え車と騎馬の兵士が数多く現れさながら大臣を守るかのようであった。車の中をひそかに伺い見ると座っていたのは張孝基であった。人々が驚き喜び、前に行って挨拶をしてその理由を聞いた。張孝基は「私が財産を義弟に渡したことを天帝の知ることとなり、私にこの山を渡したのだ」と言い終わると姿が消えた。その友人達はその後皆善行に努めた。


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