毀佛鑄銭

五代周の世宗は姓を柴、名を榮明達英果といい、儒学を尊重し治世を行った。天下の仏教寺院三千三百三十六寺を廃寺とし、天下の銅製の仏像を鋳潰して銅銭を作った。この時に「仏教は迷妄の説で人民を惑わしている。仏教の説によれば、自らの身を割いてでも世の利益とするのであるから、仏像を用いて天下の通貨として人民を豊かにすることに何の文句があろうか」といった。この言葉に、臣下は皆感心した。

毀祠存正

唐の狄梁公が江南の地を平定した際に邪教のほこらが千七百ヶ所あったので、皇帝の許しを得て全てたたき壊した。残ったのは、夏の禹、太伯、季子、伍員の四種類の正当なほこらのみであった。三国の胡頴が広東の経略使の役人になった際も、通過したところに邪教のほこらを見つけると、これに火を付けて燃やした。この二人は、正当な者をあがめ、邪教を防ぎ、後世に至るまで手本とする者である。宋の仁宗の時代の夏辣は、洪州の知事であった。そこの風俗では、鬼神を尊びまじない師は病人に薬を飲まさず、政治は祈祷で行い人民を惑わしていた。夏辣は州中を探してまじない師の家千九百戸余りを捜索し農家にさせた。さらに、邪教のほこら数百か所を壊し以後の信仰を禁止した。

邪僧自死

唐の傳奕は武徳年間に太史令の役人になった。皇帝に上奏して仏教を排斥した。「人は、桑の木のうろに生まれるのではなく父を蔑ろにする教義の宗教である。また、僧は財物をかすめ取り自分の遊興に使う者ばかりでこれを放っておくのも悪に違いない」と言い、天下におふれを出した。昔、西域から呪いが上手な僧がやってきた。この僧は人をのろい殺したり、また、呪文で生き返らせたりした。大宗はこれを目の当たりにして傳奕に意見を聞いた。傳奕は「これは邪教です。邪教は正しい宗教に勝てるはずがありません。試しに、私をのろい殺させてみて下さい。必ず失敗します」といった。僧は傳奕を呪い殺そうとしたが逆に倒れてしまいついに生き返ることはなかった。傳奕を見るといつも通り悠々として全く変わったことはなかった。邪教が行いの正しい人に効かないのはこのようである。

妖佛無光

宋の明道先生程景|頁7222は、孔子、孟子の今はまとまって伝わっていない言葉を集め、その後世に混入した間違った文章と、正しい文章を弁別した学者で、進士にあげられ上元簿の役人となった。その当時赴任先の南にあった僧坊に、首が光る仏像があると評判になり男女共にこれを見物しようと昼夜を分たず大混雑であった。明道先生は、寺の僧に「今後首が光るようなら光ってるときに首を切り落として私の所に持って来い。私も光る首を見たいものだ」と言った。これ以降、首が光るようなことはなく、河南伯に任命され、廟の庭に孔子を祭った。

除河伯害

漢の西門豹は業|邑6644の長となった。業|邑6644では河の神である河伯が嫁を娶るとして住民が苦しんでいた。豹は、「嫁取りの時が来たら私に教えなさい」と告げた。嫁取りの日がくると、豹は河に赴き、河の上に一人の大巫女の後に巫女が数十人立っているのに出会った。豹は河伯の嫁を見ると「こんな不細工では駄目だ。お前、河伯にどんな娘が好みか聞いてこい」と大巫女に告げて河の中に大巫女を放り込んだ。しばらく待っても大巫女が浮かんでこないのをみて、「時間がかかってるな、女弟子達、お前たちも言って聞いてきてくれ」といって、弟子を三人放り込んだ。女弟子も浮かんでこないので、地元の有力者の老人三人に「お前たちも聞いてきてくれ」といって、河に放り込んだ。やはり帰ってこなかったが、他の有力者は首から血を流しながら謝ったのでこれ以上放り込むことはやめた。これ以降再び河伯が妻を娶ることはなくなった。

破仙姑術

宋の元豊年間に陳州に蔡仙姑と言うものがいた。金色に化けるのが得意であり、当時の王侯貴族でこれに寄進をしないものはいなかった。また、その門の前は多くの男女でまるで市場のようであった。戸の外に常に浄水が二瓶あり、蔡仙姑を拝むものは皆この水で両目を洗ってから見る決まりになっていた。さて、この県尉の廖がこれは怪しいとにらみ手下を数人連れてやってきた。廖たちは片方の眼だけ浄水で洗い中に入っていった。さて、洗った方の眼で見ると宝の蓮の上に金色の仏が神々しく座っているが、洗わない方の眼で見ると竹の籠の中に老婆が座っているだけであった。そこで、この老婆を捕らえて帰り裁判にかけた。老婆の妖術は全て破れた。その当時の人は廖尉を「神明」といってほめた。


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