百口同爨

元魏の楊椿は字を延慶といい、家は代々順厚であり、兄弟は父子の様に目上の者に仕えた。毎朝廰堂に集まり、終日一緒にいた。うまい物があれば全員でなければ食べず、寝るときも一緒であった。一家の男女の百の口は同じ物をたべ、同じような事を言って、違った意見を言う者はいなかった。

七世敦睦

晋の氾毓は字を雅春といい、親戚一同仲が良かった。青州に住んでいたが、その家の子供には決まった親がなく、親戚一同わが子として育て、衣服は定まった持ち主と言う物がなく、皆お互いに着回していた。代々儒者として生業を行い、人倫に厚く、義を好んだ。

六院同庖

唐の劉君良は、四代に亘って同居し、兄弟の皆仲がよく、生業を同じくしていた。ひと升の穀物、一切れの布さえ自分の物とするところはなかった。武徳年間に楊洪業がその家に至り、六家族が同じ台所を使い、子弟も礼節があることを見て感服して帰っていった。貞觀六年に、門に他の家とは違っているとの幟を立てた。

九世同居

唐の張公藝は、九代に亘って同居していた。北齊、隋、唐にかけて門に幟を立てていた。麟徳年間に、時の皇帝の高宗が泰山で奉禅の儀式を行なう際に、張公藝の家に宿泊した。皇帝は、一族の仲が良い秘訣を張公藝に聞いた。張公藝は紙と筆を請い、「忍」の字を百余り書き、皇帝に進上した。皇帝がその意図を問うと、衣食が等しくないことや、幼い者の礼儀がなってないことなどもありますが、お互いに責めるのではなく、それぞれが忍ぶことで家の中は仲良くなりますと言った。

數世同爨

宋の李日|方3388は字を明遠といい、子孫数代二百人で同居し、台所を同じくしていた。官職についている者は、皆俸禄を一つにして皆で共有した。食事は人数で計算して同じ物を食べた。婚姻、葬式の費用には決まった額を定めて子弟に管理させた。

置立義庄

宋の范文正公仲俺は字を布文と言った。屋敷の近所に良い田畑を数千畝買い、養庄とし、親戚一同の貧しい者を養った。一族の中から頭の良い者をひとり選び金銭の管理をさせた。一人当たり一日米一升、一年に絹一疋の勘定とし、結婚、葬式など皆定まった費用を負担した。昔、子弟に語って聞かせるに、「郷里の呉には親戚一同、人数は非常に多く、それぞれ近しいもの、疎遠な者がいる。私の祖先からこれを見れば、皆等しく子孫であり親疎の別は無い。私は、貧しい者が飢えて凍えているのを放っておけようか。だからこそ、私の受けている俸賜を親戚一同に同じ様に分け与え、合わせて田畑、家を置こう。」

完族婚葬

宋の朱壽昌の母は木|周3621州に嫁いでいき、二人の弟妹を生んでいた。朱壽昌は官職を捨てて母を訪ねていった。運良く、母に会うことができると、母と弟妹を連れて帰った。田畑、屋敷を買い与え、母と弟妹を住わせた。一族の者に目をかけることに心を尽くし、親に別れた女子二人を嫁がせ、葬式を挙げることができない十人以上には非常に盛大な葬式をあげさせた。時の皇帝の神宗は、これを聞くと、河中の判に任じた。

百犬同食

江州の陳崇、崇の子袞、袞の子日|方3388の一族は数代が同居し、分家したことが無かった。年長から幼子まで七百人、女中を使わず間に人を入れて話すことは無かった。食事のときには皆広堂に集まり座り、成年になってない者は、別に席を設けた。犬は百匹以上いて、一匹でも来ない犬がいたら全部の犬が揃うまで餌を食べることは無かった。その村の者は全員これに感化された。南唐の王朝は義門を立て、宋の太宗は褒美の幟を与え、徭役は免除した。

兩馬同食

浦浦の鄭氏は十代に亘って同じ台所を使い、洪武年間には、千人以上が同じ食事をしていた。家にいる二頭の馬は、一頭が馬小屋から出ている間は、他の一頭が飼い葉を食べると言うことは無かった。親が亡くなると、三年の間喪に服してその間は肉や酒を一切口にしなかった。近隣の村人もこの習わしに従った。時の皇帝の太祖は、召し出して子弟の中から推挙させた。推挙された鄭濟は左春坊に、鄭水|是3992は左庶子となった。参議の大臣が家をうまく治める方法を問うと、「婦人の言うことに耳を傾けずに、深くこれを喜ぶだけです」と言った。


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