鮑子知我

齊の管仲は、字を夷吾といい、若い時に鮑叔牙と交友を持った。鮑叔牙は、管仲が賢明である事を見抜き、終生これを厚遇した。管仲は、管仲は、「始めて出会った頃、私は貧しく、鮑叔牙と市場に売りに行ったが、利益は私が取った。鮑叔牙は、私が貧しいのを知っていたからである。また、かつて鮑叔牙のために働こうとしたが、うまく行かず、私はより貧しくなった。鮑叔牙は、私を愚かとは言わなかった。時に有利、不利があるのを知っていたからである。私は、三度仕えて、三度追い出されたが、鮑叔牙は私を愚かだとは言わなかった。私が、時期に合わず、不遇だったのを知っていたからである。私は三度戦い、三度敗走したが、鮑叔牙は私を卑怯者とは言わなかった。私に、年老いた母親がいるのを知っていたからである。私は、召忽と共に、公子糾に仕え、召忽は殉死したが、私は幽囚の身となり辱めを受けたが、鮑叔牙は、私を恥知らずとは言わなかった。私がつまらない節義を恥じず、名を天下に広められない事を恥じると言う事を知っていたからである。私は、父母から生命を受けたが、私を知っているのは鮑叔牙である」と言った。

左儒爭死

周の宜王は、家来の杜伯を殺そうとした。杜伯は、無実であったので、その友の左儒は宜王に杜伯の無実を訴えた。九回訴えたが宜王は杜伯を許そうとはしなかった。宜王は、「お前は友人の事を信じて、王の事を信じないとはどういう事だ」と言った。左儒は、「王が正しくて友が間違っている時は、王に従い、友を誅戮します。友が正しく、王が間違っている時は、友に従って、仕官先を換えます」と言った。宜王は「前言を取り消せば許してやるが、取り消さなければ死刑だ」と言った。しかし、左儒は、「士は、一旦口にした言葉を変えて生きる様な事をしません。私は、君主の過ちを正して、杜伯の無実を明らかにします」と答えたので、宜王は、杜伯を殺し、左儒は死を選んだ。

掛劍示信

呉の季札は北方に使いとして向かう途中、徐君の地を過ぎた。徐君は季札の持っている剣を欲しがったが、敢て口には出さなかった。季札は内心徐君が剣を欲しがっているのを分かったが、上国に使者として向かう途中であるので剣をあげる事はしなかった。使者の任務が終わり、再び徐に至ったが、徐君は既に亡くなっていた。そこで、持っていた宝剣を抜いて、徐君の墓の木に掛け、礼をして去った。従者は、「徐の君は既に亡くなっていますのにどうして剣を掛けたのですか」と聞いた。季札は、「私は、初めから剣を徐君に差し上げるつもりでいた。亡くなっていたからと言って、どうして自分の心に背く事ができるだろうか」と言った。

過堂期信

後漢の范式は字を巨卿といい、若い時に大学に遊学した。河南の張邵と共に故郷に帰った。范式は張邵に「二年経ったらお前の母親に会いに行くぞ」と言って別れた。二年後、張邵は母親に「宴会の準備をして下さい」と言った。母は、「二年も音沙汰無く、千里も離れているのに、どうして、そう言えるのだい。」と言った。張邵は、「巨卿は、約束をたがえるような人ではありません」と言った。果たして、期日になると巨卿は現れて、張邵の母は大いに喜んだ。巨卿は上がり込んで宴会を行い、大いに楽しんで別れた。

冒雨赴獵

魏の文侯は、山沢を管理する虞人と狩猟の約束をした。約束の日になったがその日は大雨であった。しかし、文侯は狩猟に向かう様臣下に命じた。側近の者は思いとどまる様に意見を述べた。文侯は「人が一度した約束を違えるのは信義を失うに決まっている。だからこそ、雨をついてでも行かなければならないのだ」と言った。この話を聞いて国中の人が文侯に心服した。

冒雪訪戴

晋の王徽之は字を子猷といい、嘗て山陰にいた。ある大雪が降った日に部屋の扉を開けて酒を飲みながら詩を作っていた。辺りを見回しているうちに突然、友人の戴安道を思い出した。当時安道は炎|刀1939溪に住んでいた。そこで、家臣に命じて舟に棹さして炎|刀1939溪を訪れた。門まで来ると、そのまま引き返していった。なぜ、そんなことをしたのかと問われて「興に乗って来ても、興が尽きればそのまま引き返す。どうして安道にあう必要があろうか」

膠漆不如

後漢の雷義は字を景公と言った。陳重との友情が厚く兄弟のようであった。雷義が茂才に推挙されると、雷義は陳重に推挙を譲ったが、役人は聞き入れなかった。そこで、雷義は気違いの振りをして逃げ出し、推挙の命令にしたがわなかった。郷里の人は、にかわや漆は堅いと言うが、雷義と陳重の仲程ではないなと言い合った。後に、雷義と陳重は同時に孝廉に推挙され、ついには尚書郎の位までのぼった。

値賊不去

晋の荀巨伯は友人の病気見舞いのために遠方から訪ねていった。時に、胡賊が郡を攻めるのに居合わせた。巨伯は訪問先を去りかねているうちに、賊に捕まってしまった。賊は「大軍がこの軍に攻め込んで、この辺一帯はみな空家になっているのに、なぜお前は一人ここにいるのだ」と言った。巨伯は「友人が病で臥せっております。私が友人を見捨てて逃げるより、むしろ、私の命と友人の命を引き替えしたいと思います」と言った。賊はこの言葉にその友人を思い遣る心の強いことを知り、軍を廻らせてそのまま帰っていった。

戴和金蘭

漢の戴和は、友人を得る度に香を焚いて先祖に報告し、その姓名を木簡に書き綴った物を金蘭簿書と名付けた。交友を結ぶにあたっての盟約には「あなたが輿に乗り、私が笠をかぶる様な身分となっても、もしどこかであったら王車に揖しよう。あなたが歩いて、私が馬に乗る様な身分となっても、会うことがあったら馬からおりよう」とあった。その交遊は始終このような具合で、誠敬を専らとしていた。

傳霖星學

宋の傳霖は若いときに張詠と共に学んでいた。張詠は後に偉くなり、傳霖を探し求めること二十年に及んだが一度も会うことができないでいた。張詠が宛丘の大守となった頃、傳霖は星占いに熟達していた。傳霖は張詠の寿命が近付いてきたことを星の動きで知ると、すぐに褐衣を着て驢馬に乗り訪ねていった。門を叩いて大声で「尚書にお伝え下さい。青州の傳霖が訪ねて参りました」と呼ばわった。張詠は、喜んで「先生、昔はなぜ隠れたのですか。そして、今はなぜ訪ねてきたのですか」と言った。傳霖は「死生は命に有り、富貴は天にある。もし、貧賎を疎んじて富貴を求めると言うのであれば賢いとは言えまい。人の禍福を知って、これを告げないのは、思いやりがあるとは言えないだろう。今、あなたは世の中に感謝して生きている。だからこそ、一度会って昔の交遊を温めようと思ってきたのだ」と言った。張詠は「世間の人は皆、友人の富に群がり、友人の権勢に便乗する。友人の危機に出会えば、そのどさくさに自分の利益を計ろうとする。先生はそのようなところはみじんも無い」と言った。互いに大いに歓談し別れて後、一か月で張詠は亡くなった。


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