待師如君

周の伯牛は姓を冉、名を耕といい、孔子の教えを受けて徳行をもって知られた。ある時、伯牛が癩病になり孔子が見舞いに行った。伯牛は、南の窓の下に移って君子が南から見るようにして君子に対する礼で孔子を迎えた。孔子は君子の礼で出迎えられるには当たらないとして、部屋に入らず、窓から手を差し入れて永遠の別れを告げた。

待師如親

周の子貢は姓を端木、名を賜といい、孔子の弟子であった。孔子が没した後、弟子達は三年の喪に服した。三年の後、弟子達は故郷に帰ろうとした。弟子達は、子貢に挨拶をしに部屋に入ったが、声もなくただ泣くばかりであった。弟子達は、その後故郷へ帰ったが、子貢は一人庵を結んで、更に三年を過ごし、故郷に帰った。

孺子取履

漢の張良は字を子房といい、下丕|邑6588土|巳2322上に隠遁した。ある時、老人が張良の所にやって来て、履物を脱ぐと、橋の下に投げ捨てた。張良の方を向くと、「小僧、下に行って履物をとってこい」と言った。張良は愕然としたが、老人のために橋の下におりて、履物を取って来た。そこで、跪いて老人に履物を渡そうとすると、足で老人は受け取った。張良は大いに驚いた。老人は、一里程行くとまた帰って来て、小僧、教えてやろう。五日後の夜明けにわしとここであおう」と告げた。張良は、了承し、五日後の夜明けに行くと、老人が既に来ていて、「遅れるとは何ごとだ。去れ。五日後の早朝にあおう」と張良は言われた。張良は、鶏が鳴くとすぐに行ったが、老人は既に来ていて、「遅れるとは何ごとだ。去れ。五日後の早朝にあおう」と言った。張良は夜中に行くと、ほどなく老人もやって来て、喜んで「こうあるべきであるな」と言った。そこで、一編の書物を出して来て、「これを読めば、王者の師となるであろう」と言って去っていった。その書物はと見ると、太公望の書いた兵法書であった。張良は、これを勉強して、熟達し、高祖を助けて、強国の楚を破った。

童子作粥

後漢の陳国の子供の魏昭は、高|邑6630泰の弟子になろうとして、「経書を教えてくれる先生はそこいらにもいますが、人生を教えてくれる先生はめったにいません。お願いですから、そばに置いて、身の回りの世話や、掃除の世話などをさせて下さい」と頼み込んだ。高|邑6630泰は、弟子になる事を許した。高|邑6630泰は常に不機嫌であり、魏昭に命じて、粥を作らせた。粥が出来上がると、高|邑6630泰に進めたが、高|邑6630泰は叱っていった。「年長の者に粥を作ったのならば、尊敬の念がこもっていなければならない。」高|邑6630泰は、椀ごと地面に叩き付けた。魏昭はもう一度粥を作って進めた。高|邑6630泰はさっきと同じように叱った。魏昭は粥を三度目も粥を作って進めた。魏昭の姿は、最初と同じく、変わる事がなかった。高|邑6630泰はそこで「私ははじめてお前の顔を見た。これからはお前の心を知ろう。」遂に、高|邑6630泰は魏昭を導いた。

設帳授徒

後漢の鄭玄は字を康成といい、馬融に師事した。馬融は驕慢であって、高い堂に座り、絹の紗の幕をかけ、前に生徒を、後ろに音楽を弾く女性を従えて教えた。門下生は四百人あまり、鄭玄は門下に三年いたが、馬融を見る事はなかった。高弟をして、鄭玄に学問を教えた。鄭玄は日夜勉学に励んだ。馬融は門下生を集めて討論をさせた。鄭玄は馬融に招かれたのを機会に、いろいろな質問をした。鄭玄が帰る段になって、馬融は門人に「鄭玄はこれで去る。私は東に行って教えを伝えようと思う」といった。

設拜請問

宋の呂榮公は、晩年名声はいよいよあがり、国中から師とあがめられた。陳忠肅公は、元豐の進士で翰林点検経となった。楊州に行って榮公にあった。榮公は、危坐して弟子の礼で問答し、榮公の妻も同じように礼儀を尽していた。

端坐不語

宋の焦千之は字を伯強といい、厳正で品行方正であった。呂申公は焦千之を貴族の子弟の教師に招いた。ところが、子弟にちょっとした過ちをしたものがあった。焦千之は、ただ座ったまま一日を終えた。子弟の誰とも語らなかったが、子弟は、先生に恐懼した。先生は、自ら過ちに気付くのを待っておられたのである。

立雪不歸

宋の御史であった淤酢は字を定夫といい、侍郎の楊時、字は中立と共に程伊川先生に初めて会いに行った。程伊川先生は目をつぶり座ったままであった。二人は立ったまま去る事もできずにいたが、程伊川先生は目を開けると、「おお、まだそこにいたのか。もう既に暗くなった。かえって休みなさい」と言った。門を出ると、雪が三尺の深さに積もっていた。

迎置執禮

宋の彭汝礪は字を器資といい、幼い頃から、天隱に師事していた。天隱は彭汝礪を才能が有ると認めていた。彭汝礪は、その後進士の筆頭となり、保信節度使となった。彭汝礪は、天隱を迎えて、学校で子弟に教えさせた。彭汝礪は、天隱に仕えるのに弟子の礼をもって行い、はなはだ恭しかった。貴族になったからと言って師としての恩を忘れず年をとってからも少年の時のように仕えた。

以道自重

宋の程頤は字を正叔といい、哲宗に招かれて、崇政殿の説書となり、皇帝ヘ進講する役になった。程頤は非常に厳かであり、皇帝も程頤を畏れた。この頃、水|路4060公は宰相となり、九十歳であった。皇帝に対して非常に恭しかった。ある人が、程頤に、「皇帝陛下は威張って気ままです。水|路4060公の恭しい態度を見るに、あなたは、皇帝に対して礼を尽していないように見えます。」と言った。程頤は、「水|路4060公は幼い皇帝に仕える大臣です。どうして恭しくしない事がありましょうか。私は、平民であり、皇帝の師です。道理を以てしても、それぞれ、重んじる所は違います」と言った。

不敢邪心

宋の徐積は字を仲車といい、安定胡先生について学んだ。頭髪が寂しくなっていたのを気にしていたが、安定先生は、大声で、「頭髪が少ないとか、多いとかは気にするものではない。心がまっすぐであるかどうかが必要だ。」と言った。これから、徐積は気にしなくなった。

不欺終身

宋の賈黯は、字を直儒といい、科挙に一番で合格した。登|邑6639州に帰ると、太守の笵文正公が賈黯を招いた。賈黯は「私は年取ってから科挙に合格したので、よろしければ、なにかお教え願えませんか」と言った。笵文正公は、「私は、『だまさない』というのを心掛けて来ました」と言った。賈黯は、この教えを忘れず、他の人にもくり返して話した。「私は『だまさない』というのを笵文正公に教わった。一生涯これを使って行こう」


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