涌水出魚

東漢の姜詩は、母に仕えて非常に孝行であった。母は江水の水を飲むのを好んだ。家から七、八里の所にある江水まで姜詩の子供が汲みに行ってたが、ある時溺死してしまった。姜詩は、母が残念がる事を恐れて、「子供は学問をしに行きました」と偽った。妻は常に上流に行って汲んだ。姑は、魚の膾を好んだ。また、一人で食べられなかったので、夫婦は人を傭って膾を作って出した。隣に住んでいる母を呼んで、一緒に食事をしようとすると、たちまち、泉が湧いて、その味は江水の味であった。その泉からは毎日、二匹の鯉が飛び出すので、常に、母親達に膾を出す事ができるようになった。その後、群盗がこの家の門を過ぎようとする時には、首を竦めて、気配を消して、孝子を驚かさないように気を使った。

涌泉出魚

五代の陸通は生まれつき孝行であった。母の呉氏は魚が好きであったが、住んでいる北の当たりは魚が少なく、なかなか入手する事ができなかった。ある時、庭先に泉が湧いて、魚が出た。そこで、母に魚を食べさせる事ができるようになった。その頃の人は、この泉を「孝魚泉」と名付けた。陸通は後に大司寇になった。

泣竹笋生

呉の孟宗は字を子恭といい、父を早くに亡くした。母は年老いており、重い病気にかかってしまった。真冬の日に母は、竹の子を食べたいと言った。孟宗は、竹林の中に行って泣きながら天に訴えた。すると、地面が割れて竹の子が何本か出て来た。そこで、もって帰って羹を作り、母に食べさせた。たちまち、母の病気は癒えた。

剖氷鯉出

晋の王祥は字を休徴といい、早くに親を亡くし、継母の朱氏は優しくなかった。それでも、王祥は、ますます恭しく継母に仕えた。継母が病気になると、帯を解いて寝る事もしないで看病し、薬は、必ず自分で嘗めてみてから与えた。継母は、いつも生の魚をほしがったが、真冬のため池が凍って魚を得る事ができなかった。そこで、王祥は、服を脱いで氷を割ろうとした。すると、たちまち氷が解けて二匹の鯉が飛び出して来た。王祥はこれを持って帰って継母に食べさせた。また、継母が嘴のまだ黄色い雀を炙ったものを食べたいと言うと、雀が数十羽幕に飛び込んで来て容易に捕まえる事ができ、継母に食べさせる事ができた。村びとはその孝行の心の成した事に大いに驚いた。

董永傭身

漢の董永は幼い時に母を亡くし、一人で父親を養っていた。家は貧しく、人に雇われて暮らしていた。父が亡くなっても葬式を出す金がなかった。そこで、主人に銭一万を借りた。その際に、若し金を返さないようであれば、奴隷になってもかまいませんと約束した。父親の葬式を済ませて帰る路上、一人の女性に会い、その女性は妻となる事を望んで一緒に主人の家までやって来た。主人は、絹を三百疋織ったら借金を棒引きにしてやると言った。夫婦は、一月で織り上げて主人に渡した。主人は大いに驚いて、董永を自由の身にした。故郷に向かう道中、二人が出会った所に通りかかると、妻は董永に別れを告げて言った。「私は天の織女です。あなたの孝行の心に感じてあなたを助けて借金を返させました。もう留まる事はできません。」雲と霧が出て来て辺りを包んだかと思うと忽ち天に消えた。漢の郭平は、家が貧しかったが学問に励んだ。親が亡くなっても葬式を出せなかったので、自分の身を売って金を得て、墓を作った。地元の人は、この孝行を役人に伝え、郭平は遂に朝散大夫になった。

郭巨埋子

漢の郭巨は家が貧しく母を養っていた。妻が子供を生むと、母は自分の食事を減らして孫に与えてしまった。郭巨は妻に、「うちは貧乏なのでみんなが満足するだけの食事を出す事ができない。子供を殺して埋めてしまおう。子供はまたできるけれど、母を再び得る事はできない。」妻は泣いてこの言葉に従った。郭巨は三尺あまりの穴をほると、黄金の固まりが出て来た。その黄金には、「天がこの黄金を孝行の子供の郭巨に与えた。役人と言えどもこれを奪う事はできない」と書いてあった。

感天雨銭

唐の熊袞は、生まれつき非常に孝行であった。御史大夫となったが、その当時の通例として無給であった。ただ、功績があった時は褒美が下賜された。熊袞は自分の財産を全て部下のために使ってしまい余分なお金は全くなくなった。熊袞の父が亡くなっても葬式を出す事ができなかったので、昼夜泣き通した。すると、天がこの孝行の心を感じて、銭を降らした。三日の後、葬式を終わらす事ができた。余ったお金は、全て、国庫に納めた。当時の人は、これを忠孝雨銭公と呼んだ。

虫|曹5943復明

晋の盛彦は、字を子翁といい、母の王氏は目が見えなくなっていた。ある時、盛彦が一日家を空けると、妻は根切り虫を炙ったものを食事だと言って母に与えた。母が食べると美味しかった。盛彦が帰ってくると、母が根切り虫を食べているのを見て、母を抱えて非常に悲しみ、悲しみの余り一度死んでまた生き返った。妻を離婚して追い出したが、その後、母の目はまた見えるようになった。その孝行の心を褒め称えないと言う事は無かった。

感遇藥藤

南朝の鮮叔謙は、母が病気であった。鮮叔謙が、夜庭で神に祈っていると空中から声が聞こえた。「この病気は丁公藤を入手して酒にするとよい薬になる」と声は言った。鮮叔謙は、丁公藤を知っている人をさがしたが見当たらず、遂に宣都に着いた。はるか遠くを見渡すと、一人の老人が木を切っているのを見つけた。鮮叔謙は何に使うのかと訪ねると、「これは、病気の薬になる木で、丁公藤と言うのだよ」と答えた。鮮叔謙は忽ち地面にひれふして土下座をして涙を流しながらははが病気である事を詳しく告げた。老人は、哀れんで鮮叔謙に丁公藤を与え、酒にする方法を教えた。鮮叔謙は、伏し拝んでお礼を告げたが、老人の姿は無くなっていた。教えてもらった方法で酒を作り、母に飲ませると病気は治った。

感得石英

北朝の梁彦光は字を修之といい、若い時から孝行であった。七歳の時に父親が重い病気になった。医者は、紫石英を入手できれば治るのだがと言った。梁彦光は紫石英を探したけれども見つからず、憔悴してしまった。ところが、ふと見ると何やら有る。梁彦光はなんだかよく解らないが持ち帰って医者に見せると紫石英であった。父親の病気はたちまち治った。

椹5658感盜

後漢の蔡順は字を君仲といい、若くして父親を亡くし、母を養っていた。王莽の乱にあい、天下は大いに乱れ、蔡順は桑の実を拾ってしのいでいた。赤い実と黒い実の二つに器を分け集めた。赤眉賊がこれを見て、蔡順に聞いた。蔡順は、「黒く熟れて甘いのは母親に食べさせて、赤く熟れていないのは自分が食べるのです」と答えた。赤眉賊は、蔡順が孝行であるのを知ると、米を二斗、牛の足を一本残していった。

拾菜感盜

後漢の張禮は父を亡くし年取った母を養っていた。ある年凶作となった。張禮は菜っ葉を拾って帰る時にたまたま山賊に出会った。山賊は、張禮を殺して食おうとした。張禮は、頭を地面に叩き付けて土下座をして、「年老いた母親が朝から何も食べないで家におります。家に帰って母に食べさせましたら必ず帰ってあなたに殺されますから今は許して下さい」と言った。山賊は張禮を許すと張禮の弟の張孝が物陰でこのやり取りを聞いていた。張孝は山賊の所に走りよって、「いま、羹を作ろうとして走っていったのは私の兄です。兄は、母親を養っていまして、貧乏で痩せております。私は、太っていて肉も多いので、兄の代わりに私を殺して下さい」といった。張禮が再びやってくると、張禮は、私が殺される事を承知したのになんで弟を殺すのかと言った。山賊は二人の心に感じて殺さなかった。

安母感盜

後漢の趙咨は孝行であった。ある夜、盗賊が入ろうとしたが、趙咨は、母が驚くのを恐れて、盗賊に先んじて門に行き、盗賊を出迎えた。趙咨は「年老いた母親が養生しております。我が家は貧しくて何の貯えもございません。母のために、衣類と食料を置いていってもらえませんか。そのかわり、妻や子供の物でも持っていってかまいません。」と言った。盗賊は恥じ入って「孝行な子供である。こういう人の物を取ってはいけない。」と言った。そして、何もとらずに去っていった。

口|句2093母感盜

元の蔡五九が反乱し、世の中は乱れた。頼禄孫は、母を背負い、妻と手を取って山に入って盗賊を避けようとした。盗賊が村に入って来ると、人々は逃げ去ったが、頼禄孫は母親を守って逃げられなかった。盗賊は、頼禄孫に刃物を当てたが、頼禄孫は身をもって母親をかばった。頼禄孫は「私を殺しても母を傷つけたりしないで下さい。」と泣きながら言った。その時、母親が病気のために喉が乾き水をほしがったので、頼禄孫は自分の唾を口にためて、母に口移しで飲ませた。盗賊は、慨嘆して頼禄孫を殺すのに忍びなく、水を取って来て頼禄孫に与えた。そして、頼禄孫の妻をさらっていこうとしたが、仲間から「どうしてこんなに孝行な人の妻をさらって辱めようとするのだい。」と責められた。仁宗は、これを聞くと、特別に賜わり物を贈り、表彰の旗を立てた。

感兔馴擾

後漢の蔡巛/邑6577は字を伯口|皆m3910といい、生まれつき孝行に篤かった。母親の病気が長引いて三年、帯を解く事も、寝床に寝る事も無く看病した。十年経って母親が亡くなると、墓の隣に小屋をかけて、そこに住んだ。所作は礼に適っており、兔も蔡巛/邑6577のそばにいて逃げたりはしなかった。また、連理の木が生えて来た。遠くの人も近くの人も滅多に無い事だとして、わざわざ見物に来た。その後蔡巛/邑6577は漢の朝廷に仕えて尚書の位になった。

感鹿馴伏

宋の衣|者6062量は字を弘度といい、生まれつき非常に孝行であった。母親が亡くなると嘆き悲しむこと、礼として定められた範囲を越える程であった。葬式が済むと墓のそばに小屋を建ててそこに住んだ。そのそばには、鹿の群れがあったが、おとなしく、墓に植えた松に触ろうとしない程であった。他の人は、孝行の心を鹿が感じ取ったのだと言った。

孝子代父

梁の吉羽|分m28636の父は武原郷の役人であった。奸吏のために讒言され死罪が決定した。吉羽|分m28636は十三歳であったが、門の太鼓を打ならして父の冤罪を叫び、父の代わりに死刑になる事を望んだ。朝廷にこの事が知らされると、調査のための役人が派遣され、吉羽|分m28636を拷問した。吉羽|分m28636は、父の罪が冤罪である事を言い続け、翻さなかった。そこで、役人は父の罪を許した。

孝女贖父

漢の太倉令であった淳于公は罪科のために刑罰に処されるために長安に連れていかれた。淳于公は男子が無く、娘ばかり五人いた。淳于公が長安に向かう前に、罵って「女ばかり生んで男を生まなかったために、いざと言う時に役に立ちやしない」といった。娘の一人糸|是5229(榮-木)/糸5231は悲しみ泣いて父親について長安まで行った。「私の父は、役人となり、その清廉である事を皆が褒め称えていました。今、法の下に刑罰が行われようとしています。私は、それが悲しくてなりません。一旦死んでしまえば、再び生き返る事はできず、耳や手足を切られても、元に戻る事は有りません。間違いを正そうとしてももうできません。お願いですから、父の代わりに私を宮中で婢として使って、父の罪を購わせて下さい。」と書面をしたためて、天子に直訴した。天子はその心を悲しんで、法律から肉体への刑罰を除かせた。

打虎奪父

晋の楊香は楊豐の娘であった。ある時、楊香は父親に従って穀物の刈り取りをしていた。ところが、楊豐は虎に捕まり口にくわえれれてしまった。楊香は十四歳で、刃物も何も持っていなかった。しかし、父親を助けたい一心で父親のみ目に入り、虎が目に入らないので、虎の目の前に飛び出し、虎の首を掴んだ。虎は、その勢いに押されて逃げ出し、父親は助かった。

投江抱父

後漢の曹娥は曹日|于3380の娘であった。漢安の初めの端午の日に、曹日|于3380は、巫祝となり、川に祈り、婆婆神を迎えた。ところが、曹日|于3380は溺死してしまった。死体もあがらなかった。そこで、曹娥は十四歳であったが川に入っておおいに泣き、昼夜声の絶える事は無かった。七日後、遂に川に身を投げた。その三日後、父のなきがらを抱えて川の上に浮かび、虞県の長度向で、礼に従って葬った。元の順宗は、曹娥を靈孝夫人に封じた。

撃3303豹奪父

元の王氏には娘がいた。父が草刈りに行くと、家のそばで豹に会い、口にくわえられて、山の上に引きずられていってしまった。父が、大声で助けを呼ぶと、娘は、その声に気付いて、飛んでいった。途中、父親が落としていった鋤を拾い、その鋤で豹の頭を一撃し殺し、父を助けた。

訴虎念母

明の朱泰は、家が貧乏なため、拾い集めた薪を売って生活をしていた。ある時、山に入っていると、虎に出会い、虎は朱泰を背中に乗せて行ってしまった。朱泰は虎に、「今私を食べてしまうと、年老いた母親が寄る辺も無く残されるばかりです。」と訴えた。虎は、たちまち朱泰を地面に投げ捨てて、去っていった。その有り様は、人が走っていったようであった。朱泰は這いずって家に帰った。村の人たちは、朱泰の孝行の心をもって、虎残と名付けた。

義烏助土

漢の義烏県に顔烏という者がいた。親に仕えて至って孝行であったが父親が亡くなっても貧しさのために埋葬する事ができなかった。そこで、土を背負って墳丘を作って葬ろうとした。すると、たくさんの烏が飛んで来て、くちばしで土を銜えて運び、顔烏を助けた。烏のくちばしは傷付き、血を流して悲鳴をあげた。そこで、この県を義烏県と名付けた。

孝鵞奠母

唐の大寳の末、長興県の村人に沈朝というものがいた。鵞鳥の母鳥を飼っていた。母鳥は、卵を生み育てていた。ところが、母鳥は腸が飛び出て死んでしまった。雛は悲しみのあまり餌を食べなくなってしまった。破れむしろをついばんで母鳥の体を覆い、餌の草を供えてまるで葬式を行っているようであった。天に向かって長く数声鳴くと死んでしまった。沈朝は、めったにない事だと思い、二羽の鵞鳥を箱に入れて埋めてやった。今では、孝鵞塚と呼ばれ、県の東の蒋湾にある。


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