大孝登庸

虞舜の母は握登といい、早くに亡くなった。父の瞽目|叟4714は再婚をし象が生まれた。父は、舜に冷たく当たり、舜は天を仰いで号泣した。二十歳になる頃には、舜の孝行ぶりは天下に聞こえた。舜が歴山を耕すと、象がやって来て舜のために耕し、鳥がやって来て、舜のために草刈りをした。皇帝は舜のひたむきな徳を感じて、娥皇、女英の二人の娘を嫁がせた。また、自分の九人の子供と、百官を舜に仕えさせた。三十になると、宮殿に招き、天子の位を譲った。舜は皇帝になってしまうと父母に仕える事ができないと、いても立ってもいられないようであった。孟子は、これを大いに褒めて、「ああ。立派な孝行と言うのは父母を慕う事にあるのだ」と言った。

問安三至

周の文王は、名前を昌といい、王季の世継ぎとして生まれた。文王は、一日に三回父の安否を尋ねた。朝、鶏が朝を告げると、服を着て父王の寝室の前に来て、役人に、「本日の安否はいかが」と尋ねた。役人が「安寧でございます」と告げると文王は喜び、また、昼頃になると同じように尋ね、夜になってまた同じように尋ねた。もし、「すぐれません」というと、足下はおぼつかず、心配で仕方がなくなった。父王が元のように元気になると、文王も同じように元気を取り戻した。文王の子供の武王が、父の文王に仕える時は、冠もつけたまま、帯も解かないで孝養を尽した。父王が一口御飯を食べれば、武王も一口食べ、父王がふた口食べれば、武王もふた口を食べた。

戯綵娯親

周の老莱子は、七十になっていたが、両親が存命であった。彩りのきれいな服を着て、幼児のまねをして両親を喜ばせた。自分では年寄りと自称しなかった。ある時、水を汲んで建物に入り、わざと躓いて地面に倒れて子供の泣きまねをしたり、人形を弄んで親のそばにいて喜ばせようとした。楚の王がこの孝行を聞いて召し抱えようと自ら家まで尋ねて来た。老莱子は妻をつれて、江南に逃げた。

請與養志

周の曾子は父の曾皙の世話をしていた。食事には必ず肉と酒を出した。残りがなくても、「余りはあるか」と聞かれれば、必ず「あります」と答えて肉と酒を進めた。曾元も父の曾子の世話をした。食事には必ず肉と酒を出した。残りがない時に「余りはあるか」と聞かれると、「ありません」と答えながら肉と酒を進めた。孟子は、曾元は、父母の体を養う事はできた。曾子は体のみならず父母の思いをも養う事ができた事が大きく違うといった。

單衣順母

周の閔損は字を子騫といい、早くに母を亡くした。父は後妻を娶り、二人の子供を生んだ。閔損の服には粗末な物を着せ、自分の生んだ二人の子供には、暖かい服を着せた。閔損は、それでも孝行の心怠りなく父母に仕えていた。ある冬の日、父は閔損に車の御者をさせた。ところが、余りの寒さに体が凍えてしまい、車の引き綱を取り落としてしまった。父は、閔損を責めたが、閔損は言い訳をしなかった。父は、閔損が凍えていたのを知って、妻を離縁しようとした。しかし、閔損は父に、「母がおりますれば、寒いのは一人だけですが、母がいなくなると三人が寒くなります」といった。父はその言葉をよしとして、離縁をやめた。母も悔い改めて三人の子供に平等に接して遂には慈母となった。孔子は「ああ、孝行なものであるな、閔子騫は」と言った。

不冠痛父

晋の義煕の子孫の華孝子は名前を寶と言った。父の豪は長安を守っていた。寶が八歳の時、父との別れに際して「私が帰る事ができたら、お前の結婚の冠をつけよう」と父は言った。その後、長安は陥落し、父もまた討ち死にをして帰る事はなかった。寶は父の言葉を悲しんで七十になるまで結婚の冠をつけなかった。

傷足憂色

周の樂正子春は座敷から下りる時に足を怪我した。その後、数カ月外出しなかった。樂正子春の弟子が「先生の足はもう治っております。それなのになんでまだ憂いているのでしょうか」と聞いた。樂正子春は「君子と言うものは、足を上げても父母を思って忘れず、一言言っても父母を思って忘れないものだ。ところが、私は、体を傷つけないと言う孝行の道を忘れていた。そのために憂いているのだよ」といった。

受杖悲泣

漢の韓伯愈は非常に孝行であった。ある時、間違いをしでかしたので、母親が韓伯愈を杖で叩いた。すると、韓伯愈は大声で泣き出した。母は、「以前は杖で叩かれるとお前はいつも喜んでいたのに今日に限ってどうしたと言うのだい」と聞いた。韓伯愈は「以前は、杖で叩く強さが強かったので母上の健康である事を知り喜びました。今は、あまり痛くないので、母上の力が衰えた事を知って悲しくて泣いたのです」と答えた。

行傭供母

後漢の江革は字を次翁といい、若い内に父を亡くした。内乱に遭い母親を背負って難を逃れた。薪を拾い、木の実を拾って母を養っていた。盗賊に遭い、江革から物を奪おうとした。江革は年老いた母がいて、他に母を養うものがおりませんと泣いて訴えた。盗賊は殺すにしのびず許した。その後下丕|邑6588に移ったが亜相変わらず非常に貧しく、裸同然で暮らし、はだしで人に雇われて母に供した。母は必要と思われる物がないと言う事がなかった。

鷄7088供母

後漢の茅容は字を季偉といった。ある時、雨に会って仲間達と木の下で雨宿りをした。皆は、うずくまっていたが、茅容は正座して畏まっていた。郭林宗がたまたま通り過ぎた時にこの光景を見て人と違っているのを目に止めた。そこで、茅容に泊めてくれないかと頼んだ。翌日、茅容が鶏を殺して食事の支度をしているのをで、郭林宗は、「私のためにかね」と言ったが、既にその食事は母親に据えられていた。茅容は郭林宗と共に菜っ葉のみの食事を取った。郭林宗は立ち上がって、「なんというすぐれた人物であるか」といい、学問を勧めた。茅容はついに徳のある人となった。

叱狗去妻

後漢の鮑永は長安に住んでいた。光武帝の時に、司隷校尉となり親には孝行であった。ある時、鮑永の母の目の前で鮑永の妻が犬を叱ったので、鮑永は礼儀に適っていないとして、妻を離婚した。後に、楊州の長官となったが、母が嫌な顔をしたので、即刻、官職を辞し、財産は全て弟子にあげてしまった。

詈婢逐婦

唐の李迥6545秀は若い頃、身分が低かった。ある時、李迥6545秀の妻が、腰元を叱った。李迥6545秀の母はそれを聞いて嫌な思いをしたので、即刻李迥6545秀は妻を離婚した。その理由を聞くと、「妻を娶ると言う事は、妻には、姑に仕える心構えが必要です。あなたは、その心構えができていませんでした。どうして、この家に置いておけるでしょうか。」と言った。その後、座敷に瑞兆の芝草が生え、犬は隣の猫に乳をあげるようになった。中宗は、その孝行を称える旗を立てた。

扇枕温席

後漢の黄香は字を文強といい、九歳の時に母を亡くした。母を思って憔悴する事甚だしく、着物を着る事さえできない程であった。父親に仕えるのも同じようであって、暑い時には枕と寝床を煽いで、寒ければ、自分の体で温めた。殿様の劉護表はこれを滅多にない事だとした。後に、魏郡の殿様になった。給料を分けておいて、凶作の年には貸し与えた。子供の瓊、孫の玉|宛4416は二人とも太尉の役人になった。これは、黄香の孝行のおかげである。

扇席温被

晋の王延は字を延元といい、良く親に仕えていた。夏には扇で枕と寝床を煽ぎ、冬は、自分の体温で寝床を温めた。冬の寒い最中でも、全身を被う着物を着ずに親には安楽を極めていた。

滌親中衣

漢の萬石君は石奮の長子建であり、郎中令であった。五日毎に家に帰って親に会い、必ず召し使いの者から親の下着を受け取って、自ら洗濯し、また召し使いに渡して敢て親に自分が下着を洗っている事を気付かせなかった。

滌親溺器

宋の黄山谷は、黄門侍郎の位になったが、毎朝早くに親の溲瓶を自分で洗っていた。

懷橘遺母

呉の陸績は字を公紀といい、父の康は廬江の太守であった。陸績が六歳の時に九江に行き、袁術と会見した。袁術は橘の実をもてなしに出した。陸績はそのうち三枝を懐に入れたが、退出の挨拶をする時に地面に落ちてしまった。袁術は、「陸のこわっぱは客となったら橘を懐にするのか」といった。陸績は、ひざまづいて「持って帰って母に食べさせたかったのです」といった。袁術は奇特な事だと褒めた。

懷肉遺母

宋の歐陽守道は字を公權といい、若くして父を亡くし、非常に貧しくて教師につく事もできなかったが、自力で学問に励んだ。村の人は、歐陽守道を招いて子弟の教師とした。主人は、共に食事を取ったが歐陽守道はいつも肉を懐に隠して持って帰って母に贈った。主人は、別に一皿を設けて食事を歐陽守道の母に贈らせた。そこで初めて歐陽守道は肉を食した。村の人たちは、歐陽守道の徳仁を褒め称えた。

遺羹悟君

春秋の時、頴考叔は頴谷の封人となった。鄭の莊公に献上する事が有り、莊公から食事を賜った。肉の羹がでたが、頴考叔はこれに手をつけなかった。莊公がその理由を問うと、頴考叔は「私には母親が有りまして、私の食べ物を分けてあげておりますが、未だに君の羹というのを食した事がございません。つきましては、この羹を母に贈る事をお許し願います」と言った。莊公はこの時たまたま母親と諍いを起こしていたが、頴考叔の言葉を聞いて深く反省し、また、母と元のように仲直りをした。

焚頂増壽

宋の龍/共7760明之は幼くして父を亡くし、祖母の李氏に育てられていた。李氏は、昔夢で緑袍神人に会い、お前の寿命は七十七年であると言われた。崇寧年間にこの年に李氏がなると、果たして病に倒れた。龍/共7760明之はお香を頭のてっぺんに焚いて、「自分の寿命を五年減らして、祖母の年令を増やして下さい」と祈った。すると、李氏は病気が治って、八十二歳で亡くなった。

割股療母

隋の陳公果仁は司徒となり、生まれつき忠孝であった。母を早くに亡くし常に恩に報いる事を心掛けていた。継母が病気になったので、牛肉を焼いたものを食べさせようと考えた。たまたま、牛の屠殺が禁じられていたので、自分の股の肉を切って羹を作り継母に食べさせた。すると、継母の病気は治った。後の人は、陳公果仁の徳の例のない事を称えた。その後、唐の武后垂拱元年に常州に廟を建てた。

割股愈父

唐の鄭徳寵は字を天裕といい、幼い時に母を亡くした。鄭徳寵は号泣して失明してしまった。その後、父が病気になり、なかなか治らなかった。鄭徳寵は慟哭して、香を焚き天に訴えた。自分の股の肉を取って粥を作り、父に食べさせると、父の病気はほどなく癒えた。村人達はその孝行の心を褒めて、県の知事の徐公に訴えた。知事は詩を贈って褒め称えた。

割股和藥

宋の葛小閏は九歳のときに、母の朱氏が病気になった。香を腎に焼いて、神に祈った。さらに、股の肉を切り取って、薬と合わせて母に服用させた。すると、母の病は癒えた。村の長の程玉|必4376引は、葛小閏を召したが、葛小閏はまだ歯がはえ換わっていない程幼かった。そこで、その生まれつきの孝行の心を哀れみ、村に褒めたたえる旗を立てた。

圭|刀1927肝和湯

明の張信は生まれつき非常に孝行であった。ある時、母が病気になったが、医療の甲斐なく治らなかった。張信は香を焚いて、天に祈った。また、自分の肝臓を切り取って、湯と共に母に食べさせた。すると、母の病気は治った。永楽帝はこの事を聞いてその孝行を褒めたたえる旗を立て、張信は尚寶司丞となった。


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