閉戸懸頭

楚の孫敬は字を文寳といい、常に戸を閉めて本を読んでいた。眠くなると、髪の毛を繩で縛って梁に懸けて眠らないようにした。市に行くと。皆「閉戸先生が来たぞ」といった。北史の劉火|玄4151は字を光伯といい、若い時から聡明であった。信都劉火|卓4178と戸を閉めて本を読む事十年、外に出る事はなかっった。

引錐刺股

戦国の蘇秦は字を季子といい、本を読んでいる時に眠くなると、錐で自分の股を刺した。血はかかとに達する程であった。明け方になると鍛練をした。その後趙の王と会見し掌を打って論を戦わせた。趙の王は大いに喜んで、武安君に封じられた。六カ国の宰相の印璽を帯びてその車列は王者の物の様であった。

鑿壁引光

漢の匡衡は字を稚圭といい、家は貧しくして、油を買う事ができなかった。隣の家には明かりがあったので、匡衡は壁に穴をあけてその光を取り込んで読書に使った。ある豪農の家があり、書物が多かった。匡衡は、その書物の読みたさに、その家傭い人となり、その賃金を貰わない代わりに書物を読む事を願い出た。主人は大いに感嘆して、賃金の代わりに書物を出した。ついには大学となった。元帝の時代には丞相となり、楽郷候となった。

嚢螢照讀

晋の車胤は字を武子といい、幼いうちから身を慎んで、勉学に励んでいた。貧しかったので油をいつでも買うと言う事はできなかった。夏になると布で袋を作って数十匹の蛍を入れ、その明かりで書物を照らして夜遅くまで読んだ。その後、尚書郎となった。

帶經而鋤

漢の倪寛は孔安国に学んだ。貧しかったので財産がなかった。そこで、孔安国の弟子達の世話係となった。時々は傭い工として働きに出た。常に帯に書物を挟んでおき、休憩時間にはすぐに取り出して音読した。後に御史大夫となった。

持竿而誦

後漢の高鳳は字を文通といい、若いうちから学問に耽溺した。家業は農業であった。あるとき、高鳳の妻が野良仕事をしに行くので、庭に干してある麦を鶏が突つかないように番を高鳳にさせた。俄に雨が降り出して、水浸しとなり、麦は水に浮く有り様であった。しかし、高鳳は鳥を追う竿を持って文章を唱えるのを止めなかった。妻は野良仕事から帰ってきてその有り様を怪んだが、高鳳は雨が降った事さえ気付いてなかった。

映雪讀書

晋の孫康は若いうちから清廉であった。家は貧しく、油を買う事ができなかった。嘗て雪に映った光で書物を読んだ。後に任官して御史大夫になった。

隨月讀書

南齊の江泌は若い時に学問に努力した。家は貧しく、油を買う事ができなかった。そこで、月の光で書物を読んだ。月が斜めになると、屋根に上ってその光で夜を徹して本を読んだ。

呼聖小児

北史の祖瑩は字を元珍といい、八歳の時から読書に耽り父母は病気になるのではないかと恐れた。そこで、読書を禁止したが祖瑩は全然止めなかった。密かに種火を隠しておき、父母が寝静まった後で明かりを灯して本を読んだ。服で窓や扉を塞いで光がもれないようにして、家の者にばれる事を恐れた。家の中の人も外の人も聖小児と呼んだ。後に、秘書監となった。

與聖賢對

唐の狄仁傑は字を懷英といった。子供の頃、門下に殺人があった。役人が来て詮議をしたが、仁傑は書物を読んでいて相手にしなかった。役人は、質問に答えるようにと仁傑を責めた。仁傑は、「経書の中で、今将に聖賢と向き合っている所です。なんで、俗な小役人の相手をする暇がありましょうか」と言った。後に丞相となり、梁公となった。

乘牛讀書

隋の李密は若い時から学問を嗜んだ。蒲の敷物を敷いて牛に乗り、その角には漢書を角に懸けておいた。道々読みながら行くと、路上で越の国の大名である楊素と出会い、「そんなに熱心に勉強している書生を私は見た事がない。ところで、何を読んでいるのかね」と聞いた。項羽伝であったので、共に語り合い、楊素はめったにいない人物であると評した。早速楊素は李密を推薦して李密は内史の役人となった。隋末に世が乱れると李密は雍丘に兵を起こし、魏公と称した。

賣薪讀書

前漢の朱買臣は字を翁子といい、家は貧しくて薪を売って生活していた。道々、書を唱えた。朱買臣の妻は、これを恥ずかしがって離婚する事を望んだ。朱買臣は「お前には、長い間苦労をかけているな。今に金持ちになってお前に報いるぞ」といった。妻は怒って、「あんたなんか、最後には飢え死にして終わるのよ。」と言った。朱買臣は妻をとどめる事はしないで、離縁した。五十歳になって、会稽の殿様になり、東越を撃破して、錦を着て故郷に帰った。

坐穿木榻

魏の管寧は字を幼安といい、華音|欠3781と共に同じ座席で並んで学んでいた。ある時、貴族の車がやってきて、門の外を通り過ぎた。管寧はそのまま本を読み続けていたが、華音|欠3781は読むのを止めて見物に行った。管寧は椅子をたたき割って華音|欠3781の席と分けた。「お前は私の友人ではない」と管寧は言った。管寧は常に同じ席に座り、その膝が当たる所は皆へこんでいた。本を読んで飽きると言う事がなかった。魏の明帝の時に、揺れない車と玉璧を下賜して招いたが、招きに応じなかった。

煖啗艸/韲5822

宋の范仲淹は字を希文といい、若いうちから友人と長白山のお寺で学問を修めた。穀物二升を煮て粥を作り、一晩ほっておいて固まったのを四つに分け、野蒜の茎を十数本切って漬けたものを食べた。このようにして三年勉強し、兵部尚書となり、魏国公に封じられた。

開卷有益

宋の太宗皇帝は書物を熱心に読んだ。午前十時から午後四時まで読書をし、その後本を閉じた。宋玉|其4414は、根をつめますとお体に触りますと皇帝を諌めたが、皇帝は、本を読むのは有益な事のみで疲れる事はないといった。国中におふれを出して全ての書物を求めた。差し出す事を望まない書物は借り上げて書写させた。これによって、全ての本が集まった。

手不釋卷

宋の司馬光は字を君實といい、七歳の時には左氏春秋の講議を聞いた。家に帰ると、家の人たちに、聞いてきた内容の講議をし、内容を明らかにした。書物を読んでいれば、飢餓、寒暑を気にする事はなかった。兄弟達が遊びに行っても、一人書物に耽っていた。そのようにして覚えた文章は、終生忘れる事がなかった。十五歳になると内容が分からないと言う事が無くなった。寶元年間に進士に推挙され、端明殿学士となる、温国公となった。

畫荻學書

宋の歐陽修は字を永叔といった。生まれて四歳の時から、母の韓国夫人みずから書を読む事を教えた。家が貧しかったので、荻の枝で地面に画き、書を学ばせた。歐陽修は賢かったので、一度見ただけで暗唱する事ができた。成人になると進士に推挙され、二度の試験を受けた。そして、翰林学士となった。

圓木警枕

司馬温公は静かな人物であった。書物は机の上に溢れ、また、馬上で読み、夜を徹して読み、時々はその文章を唱え、文章の内容に思いを馳せた。丸い木を枕として使い、うとうとすると枕から転がり落ちて、また、起きて本を読んだ。

不顧羹炙

宋の劉恕は字を道原といい、学問を好み、書物を読んだ。人は「スープが冷めても気付かない」と呼んだ。夜は古今を思い、眠らないまま朝になった。後に、和川令の役人となった。宋次道の家には書物が多かった。劉恕は行って書物を借りて読んだ。宋次道は、酒、肴を用意して歓待しようとしたが、劉恕は、「そのような事はしないですぐに下げて下さい」と言った。一人で門を閉じて、昼夜読んで書き写した。十日ほど留まって写し終えると帰っていった。

不展家書

宋の胡瓊は字を翼之といい、孫明、復石、守道と泰山で書物を読んだ。苦しみに耐え、粗末なものを食べて、夜通し寝ないで十年帰らなかった。家からの手紙は、表に「平安」とあれば捨て去って広げて読む事はしなかった。後に、蘇、胡の二つの州の教授となり、安定先生と称した。

置燈帳中

宋の范純仁は字を尭夫といい、昼夜学問に励んだ。とばりの中に灯りを持ち込んで、夜遅くまで寝ずに学問を行い、遂に、官吏の試験に合格した。その妻は、とばりをしまっておいた。後に、妻は、とばりのてっぺんが墨のように黒くなっているのを子供や孫に示し、「お前達のお父さんが、若い時に勉強に励んだ跡ですよ」といった。

與神明伍

宋の張九成は字を子韶といい、早くから学問をし、八歳で六経を暗唱し、大体の内容に通じた。十四歳で地元の学校で学んだ。家を閉じて読書に励み、膠が折れる程の寒い時でも、また、金属が溶ける程の暑い時でも戸を越えなかった。隣家の人が穴の隙間から覗くと、正座をして書物に対する事あたかも神と語らっているようであった。隣家の者は、敬服して張九成を師と仰いだ。後に、理宗の時に礼部侍郎となり、太師を贈られ、崇国公となった。


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