七月展書

唐の白居易、字を樂天は、生まれて七ヶ月で書物を広げて「之無」の二字を指した。百回試しても間違えて指すと言う事は無かった。その聡明さは天性のものであった。後に貞元十四年に進士に合格し、刑部尚書の位に登った。

期年取印

宋の曹彬は字を國華といった。曹彬の一歳の誕生日に父母はその前に百種類のおもちゃを並べ曹彬が何を取るのかを見ようとした。曹彬は左手に武器である干戈を取り、右手に先祖を祭る道具である俎豆を取った。その後ちょっとしてから印を取った。他の物は見る事さえ無かった。その後、枢密使相となり武惠公に封じられた。

窮天地理

宋の陸九淵は字を子静といった。生まれてすぐから英才の気配があった。三歳か四歳の時に父親に、「天地のどこに果てがあるのでしょうか」と聞いた。父は笑ったが、答える事はできなかった。陸九淵は深く考えて寝食を忘れる程であった。総角に髪を結う頃になると、通常の人と明らかに違って、見た人は思わず尊敬した。乾道年間に進士に進み荊門県の知事になった。

知孔子兄

宋の劉恕は字を道原といい、若くして明敏であり一度目を通した本は暗唱できた。四歳の時に尋ねてきた客が「孔子には兄弟が無かったな」と言ったのを聞き、劉恕はすぐさま「その兄の子をこれに妻にする」といった。その場に居合わせた人は一様に驚いた。劉恕はその後役人となってついには和川の長官となった。

人號曾子

後漢の張覇は字を伯饒といい、生後数年で孝讓を知った。その後、張曾子と呼ばれた。七歳で春秋に通じて、さらに、詩経、書経、易経、礼記、楽経を学ぼうとした。父母は、お前はまだ幼くてこれらを習うにはまだ早いといった。張覇は「私は許してくれればこれらを習えます」といった。

座稱顏囘

晋の謝尚は字を仁祖といい、八歳の時に父親の鯤に連れられて集まりに出かけた。ある人が「この子供はこの座の顔回ですな」といった。謝尚は「尼父(孔子の字)がいないのに、どうして、顔回と分かるのですか」と答えた。その場に居合わせた人で感心しない者は無かった。謝尚は後に鎮西将軍になった。

對日遠近

晋の明帝は幼い頃から聡明であった。父の元帝は殊の外明帝を可愛がった。数歳の時に膝の前に明帝を置いていた事があった。長安から使者が来た時に、元帝は明帝に「太陽と長安とどちらが近いか」と聞いた。明帝は「長安が近いです。なぜなら、太陽から人が来ると言う事を聞いた事がありませんから。」と答えた。元帝は、これを聞いて、「賢い子供だ」と思った。翌日、宴会を群臣と開いた。また、元帝は明帝に「太陽と長安とどちらが近いか」と聞いた。明帝は「太陽の方が近いです。」と答えた。元帝は驚いてどうして昨日の荅と違うのかを聞いた。明帝は「目を上げれば太陽は見えますが、長安は見えません。」と答えた。これを聞いて、ますます「賢い子供だ」と思った。

對日食状

後漢の黄玉|宛4416は字を子玉|炎4420といい、若くして知恵者であった。七歳時、祖父の瓊が魏郡の太守となった。ある時、日食が起こった。瓊は手紙で太后にどれくらい欠けたのかを聞かれた。瓊はどう例えるべきかが分からなかった。黄玉|宛4416は「日食の残りは月の始めの様です。とどうして答えないのですが。」と聞いた。瓊は大いに驚いてその言葉通りに返事を書いた。そして、深くこれを滅多にない事だと思った。

欲正明字

唐の劉晏は字を子安といい、七歳にして神童となり、正字の官になった。楊貴妃は、劉晏を膝の上に乗せ、自ら、眉を描き、髪の毛を整えた。明皇は劉晏に「卿は正字となったが、いくつの字を正したのかね」と聞いた。劉晏は「天下の字は全て正しくなっております。但し、『朋』の字のみまだ正しくありません」と答えた。

請面試文

魏の曹植は字を子建といい、十歳にして立派な文章を綴った。その父親の操はある時曹植の文を見て、「お前は人を傭ってこれを書かせたのか」と言った。曹植はたちまち、父親の前に膝まづいて「心から出た言葉で論をなし、筆を自ら下して文を作ったものです。お願いです。面前で試して下さい。どうして、私が人を傭って文を書かせたりするものでしょうか」といった。

吟華山詩

宋の寇準は字を平仲といい、八歳の時に華山の詩を吟詠して、「只天上に在る有り。更に山と與に齊しき無し。頭を擧げれば、紅日近し。首を回せば白雲低かる。」その師は父親に、「賢い子供ですね。どうして宰相にならない事がありましょうか」と言った。十九歳の時に進士となり、真宗の朝廷の相となり、莱公に封じられた。

賦牧童詩

宋の黄庭堅は字を魯直といい、幼い頃から悟りが早かった。その舅の李常が本棚の本を取って質問してみると、分からない事はなかった。李常は驚嘆して言う事には、「まさに一日に千里であるな」。七、八歳の時に牧童の詩を歌った。「牛に騎りて遠遠前村を過ぐ。短笛横へ吹き隴を隔てて聞く。多少長安名利の客。機關用い盡して君如かず。」後に、進士になり国史編修の役人となった。

不思而對

宋の王禹稱は字を元之といい、七歳の時から文章が上手であった。父は粉屋であった。畢文簡公は州の属官であったとき、元之は父の代理として麦粉を運び、文簡公の庭に立った。文簡公は人を集めて連歌をまさにやっている最中であった。「鸚鵡能く言えども爭(いかで)か鳳に似ん。」元之は、声を張り上げて言った。「蜘蛛巧みと雖も蠶に如かず。」文簡公は驚いて世の中を治める才があるなと言った。元之を手許に置いて子弟と一緒に学ばせた。ある日、磨の詩を作らす講議があった。元之は思わず「但だ心裡の正を存す。何ぞ眼下の遲を愁ん。人を得て輕く力を借る。便ち是身を轉る時」文簡公は大いに驚き、これをよしとした。遂に衣冠を加えるまでになり、小さい友よと呼ぶようになった。太平興国八年に進士となりその後制誥の知事となった。さらに、内相となり、文簡公と朝廷に並んで進むようになった。

頴悟非常

元の許衡は、七、八歳の時から郷師について学問を学んだ。読んだ書物は忘れる事がなかった。ある日、許衡は先生に「書物を学ぶのは何のためですか」と聞いた。先生は、「科挙に合格するためのみだ」と言った。許衡は「なんだ、それだけですか。」と言った。先生は大いにこれをよしとした。許衡の父に、「この子は悟りが早く、普通ではありません。いつの日か必ず大人物になるでしょう。私は、この子の先生となる能力はありません。」といい、師となるのを固辞して去った。許衡は、後に元朝に仕えて大学士となり、魏国公に封じられた。

七歳及第

五代の郭忠は、字を恕先といい、幼いうちからよく書物を暗唱し、文章を綴った。七歳の幼児で科挙に合格し、周の廣順年間の初めに国子博士となった。時の皇帝の太宗はその名声を聞いて衣裳を下賜した。大学に住み込んで、歴代の字書の間違いを正した。校訂した古文尚書と解釈は世に広まった。

八歳屬文

隋の陳杲仁は字を世威といい、幼いうちに孝経、尚書を学んだ。一度見ただけで暗唱する事ができた。八歳になると、文章を立派に綴った。十三歳になると、諸史を全て読んだ。当時の人は、孔子の再来だと言った。陳の文帝の天康元年に進士になり、十八歳にして、監察御史となった。後隋では、勅命により賊を成敗し、数々の功績を上げた。太司徒の位を拝命し、亡くなった。列帝に封じられ、廟をたてて祭られた。

無所不通

梁の顧野王は字を希馮といい、七歳にして五経を読み、九歳にして文章をよく作った。天文、地理、卜筮、篆隷、知らない事はなかった。玉篇という字書、輿地志を編纂した。梁に仕えて、黄門侍郎となった。

援筆立就

唐の季賀は字を長吉といい、七歳にして文章をよくした。韓退之、皇甫水|是3992の二人がその家にやってきた時、お祝に詩を作らせた。筆を採るとすぐさま作ったため、高軒過と名付けられた。「二十八宿、心胸に羅る。筆造化を補りて天功無し」等の語があった。二人は驚嘆して去った。二十七歳の時に唐の憲宗は召し抱えて協律郎となった。

五行倶下

梁の武帝の太子で蕭統小は字を維摩といい、書物を読むと、一度に五行を読んだ。五歳の時には五経を暗唱し、文選三十巻の注釈を作り、陶淵明の詩集に注釈を付けた。三十一歳で亡くなったが、官民あげて悲しんだ。

一字不遺

漢の蔡巛/邑6577の娘で蔡玉|炎4420は、字を文姫といい、六歳にして音律をよく分かっていた。巛/邑6577が夜琴を弾いていると弦が一本切れた。巛/邑6577が、切れたのはどの弦なのかを聞くと、「第一弦ですね」と答えた。父は、偶然であろうと思い、更に弦を一本切った。また同じように、どの弦かを聞くと「第四弦ですね」と答えた。笄を挿す十五歳になると、衞に嫁ぐ事になったが、道中に胡人に襲われて捕虜となってしまった。二十歳の時に曹操は巛/邑6577と知り合いであったので、金や璧を胡人に贈って蔡玉|炎4420は帰る事ができた。巛/邑6577の手紙を聞くと、「父の手紙は無くなってしまいました。でも、四百篇以上ありましたが、覚えています」と蔡玉|炎4420は言った。そこで、曹操は、紙と筆を持ってこさせると、蔡玉|炎4420は一字も残さず全て書く事ができた。辺境の地に捕われていても全く忘れないと言うのは、とても男子の及ぶ所ではない。

十行倶下

明の方孝孺は若くして悟りが並外れて速く、両目はぎらぎらと光って雷のようであった。本を読むにあたっては、一目で十行を同時に読んだ。歯が抜け変わる頃には文章を上手に綴った。人々は、「小さい韓兪」と呼んだ。学士の宋濂はその文章を見て、都に上るように薦めた。洪武年間に、太祖皇帝は霊芝と甘露についての論議で方孝孺を試験した。太祖皇帝は太子にこの人物は優れている。ここに置いてお前を助けさせろと言った。

四歳大書

明の李東陽は四歳にして大書を上手にした。李東陽は景泰年間に召し出されて皇帝が大書を御覧になり、皇帝の膝の上で珍しい果物を李東陽に賜った。天順年間に十八歳にして進士の二甲第一となり、編修の官に任官された。弘治年間にはさらに礼部侍郎と読学士になった。正徳年間には太子の大師萃葢太学士となり、首相となり十八年勤めた。


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