弘演納肝

春秋の時に衛にいた弘演は懿公に採用された。ある日、他の国へ使者として出かけたが、衛に帰り着く前に懿公は殺されてしまった。懿公の死体はばらばらにされ残っているのは肝臓のみであった。そこで、弘演は懿公の肝臓に向かって使者の次第を報告し大泣きに泣いた。弘演は自分の胸から腹を切り、自分の肝臓を取り出し、そこに懿公の肝臓を納めた。その後、懿公を殺した家臣を殺した。弘演が自分の肝臓を懿公の肝臓と取り替えた事でその忠烈を思う。

豫譲漆身

晋の豫譲は智伯に仕えていた。趙襄子は智伯を殺し、その頭蓋骨に漆を塗って小便を入れる器とした。そこで豫譲は智伯の仇を打とうと、匕首を持って宮殿の便所に隠れた。しかし、趙襄子に見つかってしまい捕らえられてしまった。趙襄子は「義士である」といい、豫譲を許し釈放した。豫譲は体に漆をぬって癩病を装い、また、墨を飲んで声を潰して唖となった。豫譲の妻も友人も豫譲だと言う事が分からなくなった。妻や友人が「どうしてそこまで自分を苦しめるのか」と問うと、豫譲は「私は、天下に二心を持つものとなった事を恥じているのです」と答えた。豫譲は橋のたもとで趙襄子が通りかかるのを隠れて待った。橋に趙襄子が通りかかると馬が驚いたため再び豫譲は捕まってしまった。豫譲は趙襄子の衣服を貰いたいと懇願し、趙襄子は豫譲に衣服を与えた。豫譲は三回飛び上がって衣服に斬り付け「これから智伯に報告に行ってきます」と言って自分の剣の上に身を投げ死んだ。

不失漢節

漢の蘓武は字を子卿といい、中郎将となった。武帝が蘓武を匈奴に使者として使わしたが、匈奴の單于は蘓武を寝返らせようとした。蘓武が拒否したので穴蔵に押し込められ食べ物も与えられなかった。蘓武は降ってくる雪と、敷物を齧り生き長らえた。数日の後、蘓武が生きていたので北の海の方に連れていき、雄羊の番をさせた。そして「雄羊が乳を出したら帰してやる」と言った。蘓武は、野鼠を捕まえ、山の木の実を集めて食料とし、漢の使者の杖をついて羊の番をした。そのうちに、杖に着いていた羽飾りは全部落ちて無くなってしまった。昭帝の時代になってやっと帰る事ができたが匈奴にいた事十九年となり、出発の時には若々しかったが帰るときには髪は真っ白になってしまった。

不忍呉亡

春秋の時、伍子胥は名前を員といい、呉の役人であった。呉王夫差は越を征伐し、越王勾践は破れた。そこで西施という美女を献上し呉王を骨抜きにしようと企んだ。呉王は西施に夢中になり政治を省みなかったので国は荒れ果ててしまった。伍子胥は呉王を諌めたがその怒りを買い、属鏤という名の宝剣を賜り、自殺するように命じられた。伍子胥は天を仰いで「私が死んだら越の人が必ず呉の先祖の墓を掘り返すだろう。どうして私が安心して死ねようか」と大声で叫んだ。呉王は伍子胥の死体に浮き袋を付けて沈まないようにして銭塘江に投げ入れ、頭は切り落として城の南のやぐらに置いた。伍子胥の魂は、潮に乗って往来し、また、波が激しくても越の岸に着く事はなかった。越王勾践は二十年以上の苦心の末呉に攻め入って仇をとろうとした。越王が伍子胥の頭を見ると、車輪の様であり、目は稲妻の様であり、髪と鬚は四方にはり出してその影は越軍を射た。突然暴風雨が起こり雷が激しく鳴り響き、落雷も起き、砂は飛び、石はまるで石弓で飛ばされているように飛んで越軍に多数の死傷者が出た。越の将軍は、伍子胥の首に向かって拝礼をして引き下がった。その夜、伍子胥が夢に現れ、「私は、呉が滅びるのが忍びなく、あなたの軍を引き帰らせた」と言った。翌日、越の軍は東の門から呉に入ったが、呉王は「何の面目があって伍子胥に会えようか」といい、自ら火を付けて焼け死んだ。

神矢斃賊

隋の司徒の陳果仁は沈法興の婿となった。沈法興は太業の末に呉の太守となり、隋に背いて梁と号して皇帝を名乗った。常州に足場を築いて陳果仁も反乱に加担する様に要求したが陳果仁は従わなかった。そこで、沈法興は、酒に猛毒の鴆鳥の羽を浸してこれを飲ませ陳果仁を殺した。沈法興が反乱を起こしていたある日黒い雲が空を覆い、陳果仁の姿が現れた。陳果仁は神矢を放つと、沈法興を貫き殺した。残党は散り散りになって反乱は終わった。唐の高祖は祠を建てさせ、陳果仁の忠義を称え、武烈帝の称号を贈った。英雄のの子孫は出世し、陳果仁の隠された兵隊は国を助け賊を討ち、祈ればすぐに叶えてくれた。

烹妾食將

後漢の減洪は字を子源といい、十五歳で童子郎を拝命し孝廉に推挙された。体は大きく、普通の人とは違っていた。当時董卓が皇帝を殺し、袁紹が減洪を東郡に囲んだ。東郡の城では、食料が尽き、鼠を捕って食べ、骨や筋を煮て食べる有り様であったが、それらも尽きてしまった。ついには愛妾を殺して、兵士に食べさせた。男女七八十人が枕を並べて死んでいった。離反もあり、城が陥落した。袁紹は生きたまま減洪を捕らえ「どうだ、まだ降伏しないか」と言ったが減洪は目を閉じて「力が足りなくて復讐できないのが悔しい。どうして降伏なんかしようか」と言った。袁紹は減洪を利用する事ができない事を悟ると減洪を殺した。

分城守死

唐の張巡は真源の長官となった。至徳年間に安禄山の子の慶緒が反乱をおこし目|隹4694陽の州を囲んだ。目|隹4694陽の太守の許遠は急を張巡に告げた。張巡は許遠と城を分け合って張巡は東北を守り許遠は西南を守った。張巡は、食料が尽きると、一般の兵隊と同じ物を食べ、茶、紙を食べ、茶、紙が尽きると馬を食べ、馬が尽きると、雀を網で捕まえ、鼠を捕まえて食べ、雀と鼠が尽きると愛妾を殺して兵士に食べさせた。許遠もまた、下僕を食べ、次に城の中にいる女を殺して食べた。女を食べ尽くすと、老人、弱った人を食べとうとう皆死んでしまう事を知った。謀反をしようと言うのこそいなかったが城中に残っているのはわずかに四五十人に過ぎなかった。反乱軍が城を登ってきたときには皆飢えと病気で戦えなかった。張巡は皇帝のいる西に向かって拝礼をして「私の力は尽きてしまった。城を守り切る事ができず陛下に報いる事ができませんでした。死んで幽霊となり賊を殺します」と言った。城はついに陥落し張巡、許遠は共に捕らえられてしまった。張巡は殺されるときになっても平常心を失わずいつも通りであった。

啗2235肉斷舌

唐の顔果(ママ顔杲卿)卿は常山の太守となった。安禄山が皇帝に背き、常山を攻め囲んだ。顔果卿は日夜戦ったがついに力つき、食料も無くなって安禄山に捕まってしまった。安禄山は反乱軍に加わる様に説得したが、顔果卿は目を大きく見開いて罵って「私は国のために賊を討った。恨めしいのはお前を切り殺せなかった事だ。どうして反乱したお前になど味方しようか」と言った。安禄山は怒って顔果卿を天津の橋の柱に縛り付け関節で切り離して自分の肉をくわえさせた。顔果卿は更に罵ることをやめなかったため、安禄山はその舌を切り取った。安禄山は「どうだ、もう一度罵ってみるか」と言ったが何を言っているか分からず顔果卿は死んだ。
従兄弟の顔真卿は平原の太守となった。安禄山が反乱したときに、河北の二十四郡はことごとく陥落したが、平原城だけは陥落しなかった。そこで、明皇は非常に喜び、「私は、このような事をする顔真卿がどのような人物かは知らなかった」と言った。李希烈が反乱を起こした際、詔勅を奉じて説得に向かった。李希烈は刀を抜いて切り殺そうとしたが顔真卿は顔色も変えなかった。そこで、宦官に命じて顔真卿をくびり殺した。

鮮鋸束板

唐の孫揆は字を聖圭と言った。昭宗が李克用を征伐した時、皇帝の命令で孫揆は本道の兵を率いて戦いに向かった。李克用は伏兵を用いて孫揆を捕らえ、寝返るように言ったが孫揆は大声でののしって寝返らなかった。そこで、李克用は怒って孫揆を鋸で挽いて膾にするように命じた。ところが、鋸の歯がうまく進まなかった。そこで、孫揆は「死んだ犬も人も似たようなもんだ。鋸で挽くときには板を一緒にくくりつけて挽くもんだが、お前の部下はそんなことも知らないのか」と諭した。孫揆を鋸挽きするものは、孫揆の言うように板を一緒にくくりつけて挽いた。孫揆がののしる声は死ぬまで止まなかった。

涅背盡忠

宋の岳飛は字を鵬擧といい、若い時から節度を守り、正義を守る心をもっていた。家は貧しかったが努力して学び、孫子、呉子の兵法を好んだ。人とは思えない力持ちであり八百石の弓を引くことができた。靖康年間の初めに、金が南に侵攻してきた。岳飛は太尉の位についていたが、大小百の戦で少数の兵隊で大軍を破り、一敗もしたことがなかった。宋の秦檜は和議の交渉を行ったが岳飛が邪魔だったので嘘をついて罪を着せ大理獄に落とした。岳飛の背中には「盡忠報國」の字の入れ墨があった。岳飛は結局秦檜の企みによって詔勅を曲げられて殺されてしまった。その後、嫌疑が晴れて武穆王の諡を贈られた。

南朝一人

宋の李若水は欽宗の時に侍郎の役人となった。金が宋に攻め込み、都に迫り、皇帝のいる陣地にやってきた。李若水は皇帝を抱きかかえて大声で金の人を犬と罵った。金人は引きずり出して李若水を打ち据え顔を上げさせて地に倒した。ののしり声はやまなかった。金の下僕は「お前の両親は高齢だろう。お前が降参したら帰してやって父親に会せてもいいんだぞ」と言った。李若水は「忠義な家臣というのは、死を覚悟している。家と忠義の二つを望んだりはしない」と叱り飛ばした。その後十日間食事をしなかった。金の主将の粘没喝は李若水を召し出して寝返らせようとしたが、李若水は金の罪状を述べたて罵り、ついには唇が切れて血が出る有り様であった。罵る声はいよいよ切なくなった。そこで、刀で首を裂き、舌を切り落とし李若水を殺した。三十五歳であった。金の人は「南朝で義のために死んだのは李侍郎ただ一人だ」と言った。

真宋男子

宋の文天祥は字を永瑞といい、状元で科挙に合格し、丞相となった。徳祐年間の初め、元の兵が揚子江を渡ってきたため天下に詔して文天祥を王とした。文天祥は詔勅を受け取ると涙を流した。郡中の豪傑を一万人以上集め、元との戦に赴いた。軍の費用は全て自分の家産からまかなった。宋が滅ぶときに元に捕らえられ燕に連れていかれた。四年の間小さな家に座り込んで、敵地の地面を踏む事がなかった。元の宮廷に召し出されても、長い揖はしたが、拝礼はしなかった。元の皇帝が「お前は宋への忠誠の心で私に仕えてくれないか。丞相の位を与えよう」と言った。文天祥が答えて「願うのは死のみです。どうして二人の君主に仕える事ができましょうか」と言った。そこで、燕京の柴市で文天祥を殺す事にした。刑に挑む時、顔色を変える事はなく、南に向かって拝礼をして死んだ。四十七歳であった。元の皇帝は「文丞相は真の男子であった。本朝の将軍、大臣は皆あそこまでは及ばない。」と嘆いた。数日後、文天祥の妻が死体を引き取りにきたが、その顔はまだ生きている様であった。元の人も、宋の人もこの話を聞いて涙を流した。

節義成雙

宋の趙昂發は池州の通判に任命された。ある時、元が池州に攻め込んできた。池州を守るべき役人達は皆官職を捨ててどこかへ逃げ去ってしまった。趙昂發は、妻の雍氏に「城はもうすぐ陥落するだろう。私は逃げ出す訳には行かないがお前は先に逃げろ」と言った。妻は「主君が授けた官位を守るのに命を賭けるのなら、私はあなたの妻である事に命を賭けます。あなたが忠臣となるのに、どうして私が忠臣の妻とならない事ができましょうか」と言った。趙昂發は笑って「こういう所がお前のいい所だ」と言った。妻は先に死ぬ事を望んだが、趙昂發は机の上に「国には背いては行けない。城は降伏しては行けない。夫婦は一緒に死んでこそ節義がふたつながら全うできる」と書き残した。元の将軍の伯顔はこれをみて大きなため息をつき、部下に命じて衣服を二人の死体の衣服を整えさせ同じ墓に葬り葬式を上げて去った。

忠孝兩全

宋の江萬里は宋の元大臣であった。元の兵が勢いに乗って城を破ったと聞き、江萬里は門人の陳偉器の手を執って「私は今はその位に無いとは言え国と存亡を同じくすべきだ」と言い、水に中に入って死んだ。家族と、弟子達もその後を追って沼の中に入って死にその死体が積み重なる事畳を敷き詰めた様であった。翌日、お互いに抱き合ったまま浮かんできたので、生き残った家来が葬った。

夫妻死節

宋の陳寅は西和の知事となった。元の兵隊が攻め、城に迫ったとき陳寅は知恵を絞って城を守ろうとしたが結局力は及ばす城を支えきれずに陥落してしまった。陳寅は妻の杜氏に兵隊を避けて逃げるように告げた。杜氏は、「生まれてこの方君主の禄を食べて、王に仕える事を同じくしないなどありましょうか」といい、すぐに毒薬を飲んで死んだ。陳寅もまた、剣の上に身を投げて死んだ。その子供や姪、客になっていた者達も皆同じ様に死んで全ての死者は二十八人であった。朝廷は廟を建てて彼らを祭った。

夫婦雙節

元の門<敢7031文興は水|章4047州の知事となった。妻の王醜醜と共に勤務に励んだが、至元十七年、陳吊眼が反乱し、水|章4047州を攻めて来た。門<敢7031文興は兵を率いて戦ったがついに戦死してしまった。妻の王醜醜も捕虜となったが、辱めを受ける前に賊に「待って下さい。夫を葬ったらあなたのものになります」と嘘をついた。賊が夫を葬る事を許すと、夫の屍を背負って、薪を積み上げて火を付けた中に飛び込み焼け死んだ。この事が朝廷に知られると、褒美を下し、廟を建てて「節」と名付けた。さらに、門<敢7031文興に英毅侯、王醜醜に貞節夫人の称号を贈り、毎年これらを祭った。

剖心停鞫

唐の武則天は皇帝の位を僭称した。ある時皇帝の跡継ぎの睿宗が謀反を計画しているという事を告げるものがいた。武則天は家来の來俊臣に命じて取り調べを行わさせた。來俊臣は虎や狼より残酷なこと甚だしかった。太常工人の安金藏は、「私の心臓を解剖してみてくれ。皇太子の疑いを晴そう」と大声で叫び、腰に帯びていた刀で自分の胸を裂くと、内臓が全て出て、流れ出た血が地面を覆った。武則天はこれを聞くと、來俊臣に取り調べをやめるように命じた。このおかげて睿宗は許された。

剖心示虜

明の洪武十年に、都督僉事の濮眞が高麗を攻めて逆に捕らえられてしまった。高麗王は、濮眞が美男子である事を好み、降伏するように勧告したが濮眞は拒否した。そこで高麗王は怒って濮眞に危害を加えようとした。濮眞は大声で罵って「野蛮人どもが私に危害を加えたなら、私の君主は必ずお前の国を滅ぼすだろう。だが、安心せよ。私は立派な人物が真心のあるものに屈服しない事を知らない」といい、刀を抜いて心臓を取り出し示して死んだ。高麗王は明が攻めてくる事を恐れて使者を立てて明の朝廷に入り謝罪した。高麗王は濮眞に樂浪公の位を贈り濮眞の家の門に表した。濮眞の子供が生まれて数カ月後にはおむつをしたまま西凉侯に封じその忠誠心に報いた。

舞象不拝

唐の明皇は宮殿内に象を飼っていて、前で舞うように平素から馴らしておいた。その後安禄山の反乱で長安が陥落し、野蛮人が凝碧池に集まって大宴会を開いた。象を出して「これは南方からやってきた。私は偉大なる位にあるので人ではないものでも私に挨拶をするのだ」といい、家来に命じて拝礼をさせる様にした。ところが、象は皆目を怒らせて全く動かなかった。そこで、安禄山は怒って全ての象を殺した。

供奉號哮

唐の昭宗のとき、一匹の大猿がいた。この大猿は、跪いて拝礼をする事ができた。毎朝家来達が宮殿の下で拝礼すると、大猿も同じ様に拝礼をし、礼を尽くした。孫供奉と名付けて俸禄を与えた。朱温が反乱を起こして皇位を簒奪した。朱温が大猿に拝礼をする様に命じたが、大猿は宮殿にいる朱温を見ると、拝礼をせずに大声で吼え涙を流し拝礼をしなかった。朱温は怒って大猿を殺した。


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