王吉逐婦

前漢の王吉の家の東隣の家に棗の木が生えていた。棗の実が実り、王吉の家の庭の上へ垂れ下がってきたのを、王吉の妻が取って食べてしまった。王吉はこのために、妻を家から追い出し離縁した。隣人はこれを知ると棗の木を切り倒そうとしたが、近所の人が止めた。そこで王吉は、妻を再び帰らせ迎え入れた。漢の宜帝の時に、諫言|叉m35229大夫の役に就き、死ぬまで正当な理由がなければ物を貰ったりしなかった。

楊震却金

後漢の楊震は字を伯起といった。東莱の太守に任ぜられて、赴任する途中、昌邑を通過した。楊震がかつて荊州の役人だった時に茂才として推挙した王密が昌邑の長官になっていた。王密は十金を懐に楊震に謁見すると、楊震にその金を贈ろうとした。楊震は「私はお前の事をよく知っていたが、お前は私の事をよく知らないようだ。その金は何の金だね」と言った。王密は「今夜は知っている人もいませんので」というと、楊震は「天が知っている。神が知っている。お前が知っている。私も知っている。どうして知っている人がいないなどと言える」と言った。王密は自分のした事が恥ずかしくなり、去った。

留犢去任

魏の時苗は字を徳胄といい、若い頃からいさぎよい性格であった。壽春の長官となり初めて任地に行ったとき黄色の牛の牽く駕篭にのっていった。その後、その牛が子牛を産んだが、長官の任を解かれて壽春を去るときに、子牛を残していった。役所の会計係には「私が来たときにはこの子牛はいなかった。この子牛は淮南の生んだものである」と言った。この逸話により時苗は名を知られるようになった。

懸魚杜意

後漢の羊續は字を興祖といい、南陽の太守であった。南陽の役人が、生の魚を羊續に献上した。羊續は魚を受け取りはしたが庭の木にぶら下げておいた。その後、同じ役人が再び魚を献上したが、羊續は前に受け取った魚を見せて賄賂が不要である事を示した。

苞苴不汚

唐の韋言|先6171は潤州の刺史の役人となった。韋言|先6171は娘の嫁ぎ先を探していた。公休の日に、韋言|先6171が望楼に登って景色を眺めていると、裏の畑に何かを埋めている人を見かけた。役人に埋めていた場所を尋ねると、参軍の裴寛の土地であった。韋言|先6171が裴寛に先の行為の理由を尋ねると、「私は、賄賂を受け取って家名を汚したくありません。ところが、私に鹿を賄賂として贈る人がいて、贈ったまま返す間もなく帰ってしまいました。そこで、致し方なく埋めたのです。」と答えた。韋言|先6171はその清廉な様に感心してすぐに娘の嫁ぎ先に決めた。

卻衣凍死

宋の陳無巳は苦労して学問を修め、徐州の教授となった。靖國元年に、皇帝の徽宗が天を祭った。その時は非常に寒く、趙挺之が革衣を陳無巳に与えたが、義に適わないので受け取らずに返却し、ついに凍えて死んだ。

拾還桑木|甚m15836

宋の趙軌は齊州の別駕の役人であった。趙軌の家の東隣の家に生えていた桑の実が落ちていたので、人を使わしてこれを拾い集めて隣の家に返却した。趙軌は家の者を集めて「私は、誰かに褒めてもらおうと思ってこうしたのではない。桑の木が不本意に他の家に落ちたのであると思うからだ。」と言った。隋の文帝の時に朝廷に入ったが、趙軌の父親は趙軌を見送るにあたり、「別駕の官の清廉である事は水の様であった。願わくは餞別として一杯の水を受けてはくれないか」と言い、趙軌はこれを受けて飲んだ。

不受石硯

宋の孫之翰に一つ三千貫もする硯を上げた人がいた。孫之翰は「この硯はどこが普通の硯と違うからこんなに高いのだ」と聞いた。「硯の値段は、その石がどれくらい水を含むかで決まります。この硯に息を吹き掛ければ、水が流れ出ます」と答えた。孫之翰は「水なら一文で買える。」と答えて、その硯を受け取らなかった。


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