呑蛭不理

楚の惠王が、野菜の酢の物を食べたとき、酢の物の間に蛭を見つけた。惠王はその蛭を飲み込み、具合が悪くなってしまった。大臣の令尹が王に質問すると「酢の物の間に蛭を見つけた。もし、蛭を見つけた事を質せば、法律では料理人、食料の管理者が全員死刑になってしまう。私は死刑になるのがしのびなく蛭が他の人に見つかる事を恐れたので呑むしかなかった。」と答えた。令尹は王に拝礼して「王様には仁徳があります。そのため具合が悪くなる事はありません」と言った。その夜蛭は排出され王の病気はたちまち癒えた。

翻羹不異

後漢の劉寛は字を文饒といい、桓帝の時に、三部を司った。性格は温厚で仁愛にあふれ、気が急くような時でも未だ怒った様な声を出す事はなかった。劉寛の妻はぜひとも怒った声を聞きたいと思い、朝廷に出仕する直前に召し使いに命じて、熱いスープをひっくり返して掛けさせた。ところが劉寛の顔色は全く変わらず、「熱いスープでお前の手がやけどしてしまったね」といい、その仁厚は変わらなかった。

誣金不辨

漢の直不疑は、郎の役人となった。同じ宿舎の人が休暇で帰る際に間違って同じ宿舎の人の金を持ち帰ってしまった。その金の持ち主が直不疑を疑うと、直不疑は弁解せずに金を持ってるといい謝って金を買ってきて返却した。その後、間違ってもって帰った人が帰ってきて金を持ち主に返却した。金を取られたと直不疑を疑った人は非常に恥じ入った。この事件を契機として「長者」と呼ばれるようになった。

與馬不爭

後漢の卓茂は字を康性といい思いやりのある温厚な性格で旧知の人たちから好かれていた。あるとき、外出先で卓茂の連れている馬を自分の馬だと誤解して卓茂を責める人がいた。卓茂は弁明をせずに黙って馬をその人に渡した。その後、責めた人が無くした馬が帰ってきたので、誤解していた事を悟り馬を卓茂に返却した。卓茂が争いを好まない事はこの話の様であった。

誣牛不校

後漢の劉寛が外出先で牛を捜している人に出会った。その人は劉寛の牛車を牽いている牛を自分の牛だと思い込み返すように求めた。劉寛はその牛を渡し、自分は牛車を下りて歩いて帰った。少したった頃、牛を連れて帰った人は自分の牛を見つける事ができ、連れ帰った牛を劉寛に返却し土下座して謝り、「長者(劉寛の別名)を疑った事を大いに恥じます。ついては刑に従います」と言った。劉寛は「なに、よく似た物と言うのはあることだし、人は間違うものだ。間違って連れて帰った牛を労力をかけて連れてきてくれたし、こちらこそお礼を言うよ」と答えた。その他人を責めないやり方に地元の人は皆感心した。

見盗不發

後漢の陳寔は字を仲弓といい、田舎に住んでいた。人に接する事公平であった。ある年は世の中が荒れた。陳寔の家に夜泥棒が入った。泥棒が陳寔の家の梁の上にいるのを見つけた陳寔は、家族の者を集め、「人は生まれつき悪い人はいない。悪い事をした人と言うのは生まれつきと言うのではなく、どこかでやり方をならってそのようになったのである。梁の上にいる泥棒はこのような人である」と諭し言った。梁の上の泥棒は驚いて落ち、土下座して罪を謝った。陳寔は「あなたの風貌を見ると、悪人と言う様な顔ではない。貧困の故だろう。」といい、絹を一疋やった。これ以降陳寔に感化されてその県では泥棒がいなくなった。

唾面自乾

唐の婁師徳は字を宗仁といい度量が大きく時の大臣となった。その弟は代州の刺史の役人に任ぜられた。赴任に当たり婁師徳は弟に耐える事を教えた。弟は「人から唾を吐きかけられたらこれを拭くだけでそのことで人と争ったりしません」と言った。婁師徳は「お前の顔に唾を吐きかけられたのを拭うというのは心の中で怒っているからである。怒っているにもかかわらずそれを無理に押しとどめるのは怒りを重くするだけである。こういう場合は、ただ単に笑って唾を顔に受けて乾くのを待つ方がいい」と言った。

然鬚不責

宋の韓玉|奇4411は字を稚圭といい、定武で大将として辺境を警護していた。ある夜、家来に明かりを持たせて書き物をしていたが、家来が振り向いたときに明かりの火でひげを焦がしてしまった。韓玉|奇4411は急いで袖で火を消し、書き物をまた続けた。しばらくたった頃、そのひげを燃やしてしまった家来を下がらせたが、韓玉|奇4411は家来が罰としてむち打たれてしまう事を恐れてその家来を呼び戻して言った。「替えなくて良い。既に十分反省している。明かりをもってこい。」軍の中は皆感心した。

不問朝士

宋の呂蒙正は字を聖功といい、他人を過ちを覚える事を好まなかった。大臣となって初めて政事に携わるようになったとき、朝廷に入ると他の大臣が簾の中にいて「この小僧も参政するのか」と揶揄した。呂蒙正は聞こえない振りをして通り過ぎたが、同輩の大臣が揶揄した大臣の官位、姓名を質そうとした。呂蒙正はそれを慌てて押しとどめた。朝廷での会議が終わって退出しても同輩の大臣はまだ不満の声を上げていたが呂蒙正は「もし、名前を聞いてしまったら忘れる事はできないだろう。だから聞かない方がいいのだ。聞かなかったからと言って何の不利益もない。」といった。そこで、皆その度量に感心した。

碎盃不責

韓魏公が大名だったときに、玉の盃を二つ献上した人がいた。その盃は表にも裏にも傷一つなくすばらしい宝であった。韓魏公は褒美として百金を与え答えた。その宝盃を手元に置き非常に大切にした。宴会があると特に別に盃の卓を設け、これを覆うには錦のふくさを用いた。酒を注いでは客に勧めた。あるとき、一人の役人が誤って盃の卓をひっくり返してしまい、二つの盃を両方とも割ってしまった。その場に居合わせた人たちは皆愕然とした。役人は、地面にひれふして、罪が宣告されるのを待った。韓魏公は、顔色を変えずに笑って「全ての物はいつかは壊れる。物には寿命という物があるのだ」と笑って言った。そういうと、役人の方を振り向いて「お前はわざとやったのではなく間違ってやってしまった。どうして罪に問う事ができるだろうか」といった。一座の客は皆感服した。

喜怒不見

宋の王且は字を子明といい、温厚な性格で感情を表にあらわさなかった。食べ物や飲み物が清潔でないときはただ単に食べないだけであった。家族の者が、王且の度量を試そうと思い、肉のスープの中に少し黒いほこりを入れておいた。王且はただ単に、そのスープを飲まないだけであった。翌日、今度は飯に黒埃をまぜたが、王且は「今日は飯は食べたくない」と言うだけであった。その性格は他人の間違いを暴く様な事は好まないことこの様であった。景徳から祥符にかけて真宗皇帝の大臣となった。銭若水はこれを褒めたたえて「まことに宰相の器である」と言った。

侵毀不問

宋の張者/羽5330は尚書の位であった。思いやりがあり温厚な性格であった。隣人が張者/羽5330の家の境を越えてきたが「天下の地面は全て皇帝の物である」といい、敢えて苦情を言わなかった。隣人は、さらに土地の境界を勝手に変えていき、ついには、隣家の雨樋からの水が張者/羽5330の家に掛かるまでになった。しかし張者/羽5330は「雨が降る日は少ないし、晴れる日の方が多い」と言ってほっておいた。隣家に子供が生まれると、出仕に使ってたロバの鳴き声で子供を驚かしていけないと思い、ロバを売り払って、徒歩で出仕した。張者/羽5330の先祖の墓の前にあった碑を子供が押して倒すと、墓守りは張者/羽5330に報告に来たが張者/羽5330は「子供達は怪我をしなかったか」と聞き、墓守りが「怪我はしませんでした」と答えると張者/羽5330は子供の家に行き「怪我はありませんでした」と伝え、親が驚かないように気づかった。これから、隣家の者は皆張者/羽5330を慕うようになった。


souketsu@moroo.com