歹|食m44072餔餓

趙盾は晋の大夫であった。あるとき、遊びに出かけると、桑の間に飢えている人を一人見つけ、趙盾は壷の食べ物を与えた。趙盾が「どこの人か」と聞くと、「私は斉の人で靈輙といいます。三年間の留学から帰るところでしたが、食料が尽きてしまい進むこともできなくなっていました。」と言った。趙盾は、更に食べ物をやり、靈輙を斉に帰すことができた。その後、靈輙は晋の霊公の門衛になった。あるとき、趙盾が霊公に諫言をしたとき、霊公の怒りを受け、霊公は趙盾を殺そうとした。靈輙はその車に趙盾を乗せて逃亡を手助けした。靈輙は「私は桑林で食べ物を貰い助けていただいた靈輙です。これで、やっと恩返しができます」と言った。

食馬觧圍

秦の繆公が、名馬を山の麓で見失ってしまった。その近所に住んでいた野人達がこの馬を捕まえて食べてしまった。役人が捜索をして、馬を食べてしまった野人を三百人余り捕まえ、法に則って処罰しようとした。繆公は、「君子と言う者は、家畜程度で人を傷つけない。私は、善馬を食べて、酒を飲まないと、具合が悪くなる者だと聞いている。」と言うと、野人たちに酒を贈り、これを許した。後に、繆公と晋の惠公が韓で戦ったとき、三百人が皆繆公に従った。繆公が晋の軍に囲まれたとき、その三百人が先を争って先鋒となって戦い、晋の囲みを破った。繆公はついに脱出して、晋の軍を捕虜にして帰ることができた。馬を食べたのに、酒を贈られた徳に報いたのである。

父事王陵

前漢の張蒼は沛公が南陽を攻めたときに捕虜となり、斬首される事になった。張蒼が斬首に当たって、服を脱ぎ、地面に伏したがその体は長大で、体格がよく、白い事は瓢箪の実の様であった。王陵がその様を見てその美しく、立派な体であるのを惜しみ、沛公に助命を請いて斬首から助け出してやった。その後、張蒼が出世していったが、張蒼が王陵に仕える事は父親に仕えている様であった。王陵が死ぬと、張蒼はまるで実の父親が亡くなったかの様に嘆き悲しみ、物も食べないほどであった。その後、丞相となったが、朝の政務が終わると、王陵の家に行き、王陵の夫人を訪問し、王陵夫人の食事が終わるのを見届けてから自分の家に帰っていった。

金贈漂母

前漢の韓信は家が貧しかったので、城下で釣りをしていた。布を晒す老婆は、韓信が空腹を抱えてるのを見兼ねて韓信に食べ物を恵んだ。韓信は感謝して「私は、必ず後であなたに重く報いよう」と言うと、老婆は「私は王の子孫を哀れんで食べ物を進めたので、別に何かを後で貰おうと思っている訳ではないよ」と言った。その後、韓信が漢を助けて秦を滅ぼし、韓信は楚の王に封じられた。韓信は、以前食べ物を呉れた老婆を探し出して千金を贈った。

従治嫁妾

晋の魏顆の父は武子であり、妾がいた。妾には子供がなく、武子が病になったとき、魏顆に、妾を妻とするように命じた。病気が重くなると、武子は妾を殉葬するように命じた。武子が死んだ後、魏顆は父の妾を嫁とした。魏顆は「病気が重くなってから言った言葉は錯乱のためであり、私は、父親の意識がはっきりしていたときの言葉に従おう」と言った。その後、秦の将の杜回と戦ったが、老人が、陣地の前の草を結んでいるのを見た。杜回はこの草につまづいて倒れ、魏顆はついに杜回を打ち取る事ができた。その夜の夢で「私は、お前の嫁の父である。お前は、娘の命を助けてくれた。そこで、私は軍の前の草を結んでお前に報いたのだ」と見た。

輟女嫁婢

宋の鍾離瑾は、江州徳化県の大臣であった。娘を隣の許君の所に嫁がせる事になり、結納の日に一人の下女を買い、嫁ぐ娘につけようとした。下女は撫州の人であった。その日、下女は涙を流していたので鍾離瑾はその理由を尋ねた。下女は「私の父は、この村の村長でした。不幸な事に父母共に私が五歳の時に死んでしまい、ある役人の家で育ちました。今、あなたが役人であるのを見て、父親を思い出して泣いたのです」と答えた。鍾離瑾は大いに驚いて人買いにこの件について問いつめ、また、どの役人であったのかを詰問し、その答を得た。そこで、急いで許君に手紙を書いて「私が買った下女ですが、昔の村長の娘でした。このまままた長い事下女として使う訳にはいかないので、まず、この娘に婿を世話し、私の娘の婚礼衣装を着せて嫁がせようと思います。ついては、あなたの所に私の娘を嫁にやるのは一年待って下さい。」と告げた。許君は「昔、艸/遽5815伯玉は『一人だけ君子の位置にいる事は恥だ』と言っている。あなたは、どうして一人だけ仁義を守ろうとするのか。その娘を私に嫁がせてくれないだろうか。あなたの娘には、別の良縁を見つけて嫁がせたらどうだろうか」と返事した。そこで、昔の村長の娘を許君に嫁がせた。さて、ある日、鍾離瑾が明かりの下に一人の人が拝礼をしているのを見た。その人が言うには「私は、この村の昔の村長である。娘が一人零落していくのに心を傷めていたが、あなたの情けで嫁ぐ事ができ、非常に感謝している。そこで、あなたの仁徳の縁で寿命を十二年延長しておいた。役人としては、台位にまで至ろう」と言うと、姿が見えなくなった。鍾離瑾はその後龍圖閣の侍制の位となり、少師を贈られた。

救雀得環

後漢の楊寳は生まれつき慈しみ深かった。九歳のときに萃陰山の北側で一羽の小雀がふくろうにたたき落され、落ちた地面ではおけらのために苦しんでいるのを見つけた。楊寳は小雀を取り上げ、懐に入れて連れて帰り、小箱の中で黄花を餌として飼う事にした。百日余りが過ぎると、羽が元通りになり、朝に飛び出て、日暮れには帰るようになった。数年の後、何羽もの雀がやってきて悲しそうに鳴きながら楊寳の周りを飛び、数日後どこかに飛び去っていった。その夜、黄色い衣を着た子供が、楊寳に向かって挨拶をして言う事には「私は、西王母の使者です。蓬莱に向かっていたところ、ここで困難に会いましたが、あなたのおかげで数年養生する事ができました。お礼に玉環を四枚差し上げます。あなたの子孫は、皆潔白で三公の位にまでのぼる事でしょう。」その後、楊寳は子供の震を儲け、震は、 秉を儲け、 秉は、賜を儲け、賜は彪を儲けた。四代で三公の位にのぼり、はたして、玉環の予兆の通りであった。

救蛇得珠

隋の侯が齊に行き、一匹の蛇が砂の中で頭から血を流して苦しんでいるのを見かけた。隋侯は杖を使ってその蛇を水中に入れてやると、その場を去った。その後、用事が済んで再び蛇がいた所に戻ると、蛇が珠を一つくわえて来たのが見えた。隋侯は敢えてその珠を取らなかった。その夜、一匹の蛇を踏みつける夢を見て飛び起きた。そこで、珠を見つけたが、その珠が光る事月が照らすかの様であった。世間では、この珠を隋侯珠と名付けた。

救龜不溺

晋の毛寶が揚子江に遊びにいくと、漁師が一匹の長さ四、五寸の白い亀を釣り上げるのを見かけた。毛寶はこの亀を買うと瀬戸物の盆の中でしばらく飼っていた。その後、亀が大きくなると、揚子江に放した。十年以上がたった頃、毛寶は豫州の役人となり朱|邑6593城の城主として赴任した。石季龍と戦い敗走し揚子江の岸に着いた。揚子江は泳いでは渡れず、溺れ死なない者はなかったが、毛寶は水中に進んだ、すると、足が何かを踏み付けた。見ると白い亀であった。その亀のおかげで、東側の岸にたどり着くことができた。亀が揚子江に帰っていくと、毛寶を顧みながら去っていった。

埋蛇不死

楚の孫叔敖が子供のときに、山に遊びにいき、体の両端に頭がある蛇を見つけた。孫叔敖は人を害する事ないようにこれを殺して埋めた。家に帰ると心配している様子で食事も取らなかった。母親が理由を尋ねると孫叔敖は泣きながら「私は、両頭の蛇を見たら死ぬと聞いています。私は、その蛇を見ました。遠からずお母さんの元を去って死ぬ事になります」答えた。母親は「蛇は今どこにいますか」と聞くと「人に危害を加える事を恐れ、殺して埋めました」と言った。母親は「私は、陰徳のある人には必ず酬いがあると聞いています。あなたは死ぬ事はありませんよ」と言った。孫叔敖は」大人になると楚の莊王が車を使わして迎え、総理大臣となった。

救蟻中元

宋の宋郊と弟の宋祁と共に大学で学んでいた。外国人の僧がこの二人を見て「弟の方は、いつの日か一番で合格する。しかし、兄の方は一番で合格するのを失わない。」と言った。十年以上たって春の試験が終わった頃、再び、その僧が二人に会い、兄の手を取ってみると驚いて言った。「あなたは、風神の手から数百万の命を助けたと手相に出てます。」宋郊は笑って、「貧乏な儒者に何ができると言うのだ。」と言った。僧は「虫だって皆命です」と言うと、宋郊はしばらく考えて「数日前、堂の下で、蟻の穴を見つけたが、折からの暴風雨で蟻の穴が水浸しになる所で、蟻が沢山穴の周りにいた。私は、竹を編んで橋を作ってやり渡れるようにしてやった。この蟻達に違いない」と言った。僧は「これですね。宋祁はこの年一番で合格するが、宋郊はその下にはなりません」と言った。二人は、お互いに、「嘘に決まってるな。どうして、同じ年に一番が二人も出る事があるんだ」と言い合った。名前を呼ばれるに当たって、宋祁は一番であった。章献太后の前に出ると、宋祁は「弟が兄より先に合格する訳には行きません。」と言った所、兄の宋郊を一番とし、宋祁を二番とした。ここに至って僧の言葉が嘘でない事が分かった。

葬棺中選

宋の淳熈年間に、汪玉山は大宗伯となった。科挙の試験官をする事になった。汪玉山にはまだ、科挙に合格していない友人がいた。そこで、その友人を合格させてやろうと思い夜中に富陽の僧寺に呼び出し、「易の答案の中に『三』の古字を使え。それがお前の答案の目印だ」と密かに告げた。ところが、その友人は別れてすぐに病気になってしまい試験を受ける事ができなかった。一方汪玉山は答案の中に「三」の古字を見つけ、その答案を合格者十名の中に入れた。合格発表の後、その答案が友人の物で無かったことを知り、その答案を書いた人になぜ「三」の古字を使ったのかを問いただした。その人は、「富陽の僧寺を通った所、一つの棺が雨曝しになっているのを見つけたので、墓地を求めてこれを埋葬しなおしました。すると、その夜に一人の女子が感謝して言う事には『埋葬していただきありがとうございます。何のお礼もできませんが、易の答案に「三」の古字を使ってみて下さい。必ず合格します』と言われました。その通り、合格しました」と言った。汪玉山は非常に驚き、「陰徳の果報を得る事このようであるな」といった。

散財得子

宋の宣和年間に、嚴州で方臘が大反乱を起こし、千人以上の女性を略奪し身の代金を要求した。身の代金が払えない女性は殺した。諸曁県の金持ちの黄汝楫はこれを聞いてかわいそうに思い、家中の財産二万緡を出して捕虜の女性を皆救い出してやった。その夜、朱色の衣を着た神が現れ、「おまえは家財を投げ打って人を活かした。天はお前に五人の子供を与えよう。その子供達は皆高い位に登るだろう。お前は、財産も復活し、長生きをするだろう」と言った。果たして、開、閤、関、聞、門<言6204の五人の子供をもうけ、皆高位の役人となった。

拾字得子

宋の王曾は字を孝先と言った。父親は年とっても子供が中々生まれなかった。父親は普段から字の書いてある紙が落ちているのを見つけたら必ず拾い集め香りを付けたお湯で洗い良く乾かして燃やした。このようにすること数十年、未だに一字といえども軽んじる事はなかった。ある夜、夢に孔子が現れ、背中を叩きながら「私は字の書いてある紙を大切にするお前を気に入った。惜しい事にお前は年取ったのに子供がいない。いつの日かお前の家に曾子を生まれ変わらせよう。その子はお前の家を盛りたてるだろう。」と言った。ほどなく一人の男の子が生まれ、曾と名付けられた。曾は一番で科挙に合格し真宗と仁宗の二人の皇帝の総理大臣となった。


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