祭遵布衣

後漢の祭遵は無駄金を使わず、また、金銭に執着しなかった。将軍となって家来を召し抱える身分となったが、家来には儒者を用いた。宴会のときには音楽を流すことはなく、雅びな歌や、投壺のかけ事もやらなかった。常に粗末な着物をまとっていた。光武帝は、これを褒めて頴陽候に封じた。

是儀蔬食

呉の是儀は字を子羽といい、北海の人であった。孫權は、是儀を招いて太子の守役とした。是儀の家は、体を入れるには十分なだけの大きさしかなく、食べ物は味を気にせず、家には何の貯えもなかった。あるとき、孫權が是儀の家に行ったが、菜っ葉飯を出した。その後、尚書僕射となった。

不營貲産

唐の廬懷慎は、玄宗皇帝の時に大臣となった。清廉で倹約を旨とし、財産を殖やすことに頓着しなかった。俸禄はすべて親族、旧友に使い果たし、妻子は食べ物に事欠いたり、住むところも風雨を避けられない様な所であった。昔、客が廬懷慎の家に泊まったとき、廬懷慎の妻に「良く蒸して、毛を取りなさい。」と言う声と、何かの首を折る音が聞こえた。客は「これは、ガチョウか、鴨に違いない」と期待していたが、しばらくたって出てきたのは瓜の中で蒸した粟だけであった。

不畜財産

宋の冠莱公準は枢密の役人となり、皇帝からの贈り物が非常に多かった。この贈り物を見て、冠莱公準の乳母が、「旦那様のお母さまがなくなられた折にはやっと粗末な布を求めることができ、それを死装束としたものでした。今、こんなに富貴になることを誰が予想したでしょう」と言うのを聞くと、冠莱公準ははっとなって慟哭し、金目のものをすっかり捨ててしまった。その後、蓄財と言うものをしなかった。その後、貰った俸禄や贈り物は皆施しに使い果たし、家の中では娯楽の音もせず、ただ青い幟が二十年以上もあるだけであった。

相居陋巷

宋の文靖公李沈は字を太初といい、宰相となった。自らを飾り立てることに無頓着で、住むところは下町の普通の人が住む様な所であり、出仕の前に馬の飾りをちょっと行う程度であった。ある人が「ずいぶんむさ苦しいね」というと、文靖公李沈は「住むところは子孫に伝えるためで、祖先を祭る事ができれば良いのだし、既に祭れるようになったからね」と笑って言った。

帝衣木綿

梁の武帝は姓を簫、諱を衍、字を叔達といい、蘭陵の人であった。恭倹な性格で粗末なものを食べ、木綿を着ていた。一つの冠を三年用い、一つの布団を三年用いた。お妃、官女の衣装も短く引きずってすぐに痛んでしまわないようにした。祖先の祭も享楽の宴会にせず、酒もなしで音楽をした。政務をとっても、日が高くのぼって喉が渇くと口をすすいで飢えと乾きを我慢した。冬の寒いさなかに書き物をしようと筆をとると、寒さのために手にひび割れができるほどであった。


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