諸婦更睦

後漢の繆肉|彡5377は字を豫公といい、兄弟四人で同じ様に耕作していた。妻を娶るにあたって、財産を四人で分け、また、土地も別とした。数年の後、兄弟の間で諍いが生じた。繆肉|彡5377は、深く嘆いて、家の戸を閉じて自分の体を打った。「私は、自らの身を修め、行いを慎み、聖人の道を学んできた。それにもかかわらず家の中が調っていない。家の中を修めることもできないで何をやっているのだろう」と言った。弟や婦人はこれを聞くと、頭を地面に叩き付けてその罪を謝った。その後仲良く暮らした。

諸婦聞誡

唐の柳開宗は字を仲塗といい、毎朝弟や妻達を堂の下に集めて挨拶を受けていた。挨拶が終わると、弟、妻達は袖をもって顔を隠し柳開宗の訓戒を聞いた。「親戚中の不義の者は妻を娶っていない者はいない。他家の者が入ってくると、自分をより有利にしようとし、ついには親戚が分裂し、一門がばらばらになってしまう。これらは全て婦人の仕業である。男子のうちにも骨のある筋を通そうとする者は少なく、婦人の言葉に惑わされてしまう。お前たち皆このようなことになるのでは無いぞ」と言った。訓戒が終わると弟や妻達は恐れ畏まって退いた。不道の事は一言も話さず、この訓戒を心に留め、その家を皆全うした。

訓女箕箒

晋の广<臾2846 袞は字を叔褒といい親孝行で義の厚い家として知られていた。兄の孤児である芳は結婚するにあたって、きらびやかな服を用意していた。广<臾2846 袞は箒草を刈らせて箒を作らせた。一家の者を堂に集めて男女で列を作らせた。一同の前で芳に言うことには「芳よ、お前は幼くして両親を亡くし勝手気ままに育ってしまった。それは、お前の罪では無いが、今、お前は結婚して姑、舅に仕えることとなった。家の中の掃除は、女性の道である。そこで、お前にこの箒を贈ろう。朝夕この箒で家の中を掃除してきれいに保ちなさい。お休みの日だといっても、掃除を休んではいけませんよ」

教子規矩

宋の呂營公希哲の母である申國夫人は、厳格であり呂營公非常に愛していたが決まりを諄々と諭した。十歳になると寒かろうが暑かろうが雨だろうが一日侍立させ、座るように命じないで座ることは無かった。年長の者に面会するときには必ず正装して面会し、家では常に威儀を正して熱があっても肌着を取り去ることは無かった。外を出歩くときには、茶店は飲み屋に入ることは無く、正しくないことは一度も耳に入れることは無く、礼に適わないことは一度も目にすることは無かった。

家法名世

唐の柳公綽は河東の節度使となった。貴族の間で最も家法で有名であった。毎日日の出ごとに小部屋に集まり、一族の者は束帯をして中門の北で父母の安否を気づかった。年少の者のために経史を講釈し、官職を得ながら家の中がおさまる方法についての講義をした。夜になって寝る前に再び中門の北で父母の安否を気づかうことを二十年以上にわたり一日も欠かさなかった。

縉紳楷範

柳仲郢の母親の韓氏は宰相の休の曾孫であった。家の決まりは厳格で全てに決まりがあった。夫の公綽に嫁いで数年、だれも笑った歯を見た者がいなかった。いつも白い絹をきて、綾や錦は着なかった。そのゆえに、柳仲郢も礼節を自ら守って、成人になる前に三度も藩の重要な官職である大鎮となった。厩にはいい馬はいなかったし、着る物に香を焚き込めたりもしなかったが、公務から帰ると必ず読書に励み、書物をひも解かないことは無かった。

幽室必整

後漢の張湛は身持ちを正しくして行動を謹み挙措は常に礼に適っていた。薄暗い部屋にいて妻子といるときでも居住まいを正しくして厳君の様であった。田舎にいても言動、態度が立派であった。そのため、都に近い地域の儀表となった。

燕居危坐

宋の内翰の役職であった范祖禹は字を淳父といい暇なときでも居住まいを正しくしていつ呼ばれてもいいような座り方をしていた。まだ成人していないときにでも家の出入りで足を置く場所は常に決まっていた。机の上には無駄な物は全くなく、紙、墨、刀、筆は年中同じであった。普段見る書物を破いて損なうようなことは無く、きらびやかな服を着ることは無く、服が破れたとしても垢がついたのでなければ、新しい物と同じように着て気にしなかった。全てが自然でわざとらしいところは全くなかった。


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