食果取小

後漢の孔融は字を文舉といい、四歳の時に既に恭譲であった。兄達と、梨を食べていると、必ず小さいのを取っていた。ある人が、なぜ小さいのを選ぶのかを問うと、「私はまだ幼児ですから小さいのを取るのは当たり前です」と言った。一族の者は、この幼いのに礼を知っている事を珍しい事とした。

財産中分

漢の薛包は字を孟甞といった。父が後妻を娶ったが、後妻は薛包を憎んで他所に養子にやろうとした。薛包は日夜号泣して出ていくに忍びなかったが、遂に、杖で殴られるまでになり、やむなく、門の外に小屋を作ってそこに住み、日が昇ると門から入って清掃し、夕暮れまで止めなかった。何年かして、父母に帰って来るように言われた。父母が亡くなると、弟達は財産をわける事を望んだ。薛包はやむなく財産を均等に分けた。使用人の内、年取ったのは「私はこの人と長く共にしたのですから」といって引き取り、田畑は、荒れ果てているのを「私は昔からここが欲しかったのですよ」といって自分のものとし、器物は朽ち果てているのを「私は質素が一番なのでこういうのが安心なのです」といって引き取った。弟達が、破産すると、また、自分の財産から分けてやった。時の皇帝の安帝は、薛包が賢者である事を聞くと、呼び出して侍中の位を与えて召し使おうとした。薛包は、病気と偽って官職を辞した。皇帝は、薛包に米千石を与え、住む所を尋ねると、牛と酒を賜った。薛包は八十過ぎまで長生きをした。

扶兄疫病

晋の成寧年間に疫病が大流行した。广<臾2846袞の二人の兄は共に病気で死んでしまった。その次の兄の毘もまた病に倒れて危篤であった。父母、弟達は皆病を避けて他所に移ったが、广<臾2846袞は、父母のすすめにも従わずに、兄の看病を行った。昼夜ろくに寝ないで看病する事百数十日、遂に、兄の病は癒えた。广<臾2846袞も病気になる事はなかった。父は感嘆して、「ああ、なんと言う事だ。この子は、人の守れない事を守り、人のできない事をした。寒くなってから松、柏の散らない事が分かるように、疫病が流行ってから、始めて人の価値が分かるものだな」と言った。

姉2529煮粥

唐の李勣は字を懋公といい、身分の高い宰相であった。李勣の姉が病気になると、自分で火を燃やして粥を作った。ある時、かまどの火が顎ひげを燃やしてしまった。姉は、「召し使いなどいくらでもいるでしょうにどうして自分で作るのです」と言ったが、李勣は、「人がいないからではなく、今、あなたも私も年とってしまい、いつ、お姉さんの為に粥を煮る事ができるか分からないからです」と言った。

奉兄盡禮

唐の崔孝偉は、兄の孝芬に礼を尽し、恭順であった。立ち居振る舞いや、進退、飲食など、兄が命じなければ敢てしなかった。鶏が朝鳴くと起きて兄の顔色を伺い、一銭だろうが、布切れだろうが自分の物にする事はなかった。その妻達もお互いに慈しみあい、全ての物を共同で使った。

問兄飢寒

宋の司馬光は兄の康伯とお互いに慈しみあっていた。康伯は八十歳になっていたが、司馬光が康伯に仕える様は、父親に仕えるようであり、大事にする事は赤ん坊を世話するようであった。食事毎に、十分食べましたか、飢えてはいませんかときき、寒いと、その背中を撫でて、着物が薄くありませんかと聞いた。

同被共寢

漢の姜肱は字を伯淮といい、兄弟四人生まれつき仲が非常によかった。常に寝起きを共にして、同じ布団で寝た。妻を娶っても、兄弟と一緒にいる方がいいので、妻と寝床を共にする事はなかった。あるとき、強盗が入ったが、兄弟は他の兄弟をかばって争った。陳蕃はこの兄弟を朝廷に推挙したが、固辞して仕えなかった。

長枕共寢

唐の明皇は、生まれつき兄弟仲がよく、漢から唐にかけての皇帝のなかでは並ぶものがいなかった。初めて即位すると、長い枕と、大きな布団を作らせ、兄弟で一緒に寝た。宮殿の中に五つの幄を作らせ、他の血族と共にその中にいた。そこで、五王帳と呼んだ。

同衣逓食

漢の李充は字を大遜といい、兄弟で衣服や食器を共有した。妻が別々にしようとすると、妻を離縁して追い出した。朝廷に徴用されて博士となり、その賢さを朝廷は重んじた。

吹火艸/熱4231

唐の玄宗は兄の薛王である業が病気になると、自ら薬を煮た。かまどの火が回りこんで玄宗のひげを燃やしてしまった。侍従は驚いて皇帝を助けた。皇帝は、薛王にこの薬を飲ませて治るのなら、ひげの惜しい事が有ろうかといった。

存姪棄子

晋の右僕射であった登|邑6639攸は字を伯道といい、永嘉の末に、石勒の乱で死んだ。登|邑6639攸は牛馬を連れ、妻子を伴って逃げたが、途中強盗にあい牛馬は取られてしまった。歩いて逃げようとしたが、姪と自分の子供を両方連れて逃げ切る事はできなかった。「私の弟は早くに亡くなって、この子だけが残っている。私達はまた子供が生まれるだろうから、ここは、弟の血統を残すのが理の当然だ」と登|邑6639攸はいった。妻は泣いたが結局わが子を棄て、姪を助けた。登|邑6639攸は亡くなったが、遂に、子供がうまれなかった。姪は、父親の喪と同じ、三年の喪に服した。

止母虐兄

晋の王覧は王祥の継母の朱氏の子供であった。母は、王祥に辛く当った。王覧がまだ幼い時に、王祥が杖で殴られているのを見ると抱き着いて泣いた。王覧が十五歳になると、母を何度も戒めたので王祥を虐げる事は少し減った。ある時、丹奈が実を付けた。そこで、母は王祥に命じてこの実を守らせた。風が吹く度に王祥は木に抱き着いて泣いたが、王覧もまた同じように泣いた。また、王祥の妻にも母は辛く酷使したが、王覧の妻は王祥の妻と共に母の命令に従った。継母はとうとう王祥を虐げるのをやめた。

一門爭死

漢の霊帝は国を憂える人物の登朝を禁じた。張儉と孔褒は共に亡命しようとした。しかし、張儉は孔褒の家にやって来たが孔褒に会えなかった。孔褒の弟の孔融は十六歳であったが、張儉を家に隠した。匿っているのがばれて役人がやって来て、孔褒と孔融を捕らえて牢屋に送った。孔融は、「張儉を匿ったのは私です」といい、孔褒は「張儉は私を頼って来たのだから弟の過ちではない」と言った。役人は、孔褒と孔融の母親に尋ねたが、母親は「家事一切は長男に任せております。私も罪に当たりましょう」といった。一族のもの皆罪を認めようとした。郡、県の役人は犯人を決する事ができなかったので皇帝に伺いを立てた。皇帝は、孔褒を罪とした。

代弟赴賊

後漢の趙孝は天下が乱れて人同士が食い合うような時に、弟の礼が賊に捕まったと聞いた。趙孝は、これを聞くと、自分の体を縛って、賊の所に行き、「弟は飢えて痩せております。私は、太っていますので私を食べて下さい」と言った。賊は、その言葉に驚いて、二人とも解放した。

射牛不問

隋の吏部尚書であった牛弘の弟の弼は、酒が好きで、ある時、酔っぱらって、牛弘の車を引く牛を射殺してしまった。牛弘が家に戻ってくると、妻は弟が牛を射殺しましたと告げた。牛弘は驚いた様子もなく、干し肉にしなさいといった。皆が揃うと、妻は「弟が、たちまち牛を射殺しました。」とまたいった。牛弘は、「私は既に知っている。」といって、顔色もかえずに、読書を続け、止めなかった。

感樹復居

隋の田真は三人兄弟であった。財産を分割して、別々に住もうとした。家の前に、いばらの茂みがひと株あり、この株も三人で分割しようとした。ところが、夕方になると、この樹は枯死する寸前であった。田真は、これを見て非常に驚き、「木は元々同じ株から出ている。今、株を分けようとしたので、木が枯れてしまった。まして、人間ならどうだろう。兄弟は木以上にお互いを思い遣っている。人は木ではないのに、わける事などできるだろうか」と兄弟に言った。兄弟は、お互いに感じあって、また、もとの通り同居した。いばらの茂みも元通り花を咲かせるようになった。


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