子路負米

周の仲由は、字を子路といい、家は貧しく、あかざなどの葉っぱぐらいしか食べられなかったが、親の為に百里もの遠いところから米を背負ってきた。その後、親が亡くなったのち、南の楚の国に行った。百台の車に穀物を積み、布団を重ねて座り、鼎を並べて食べるような身分になった時に、嘆いていった。あかざを食べても親の為に再び米を背負う事もできないのか。孔子は、「生きている時は力の限り尽して、死んでしまった時は思いを込めて尽すというのは由のような者をいうのだな」と言った。

丁蘭刻木

漢の丁蘭は幼くして父母を亡くした。父母に孝行できなかったので、木に像を刻み、これに仕える事生きている父母に仕える様であった。隣人の張淑の妻は丁蘭の妻の所に来て、物を借りた。あるとき、さかずきを貸してくれと言ったが、木像が許さないので、丁蘭の妻は貸すのを断った。すると、張淑の妻は酔っぱらってやって来て、木像を罵り、杖で木像の首を叩いた。丁蘭が外から帰って木像を見ると涙を流していた。そこで、妻を問いつめると、一件を告げた。丁蘭は怒り狂って張淑を打ち倒し、役人に告げた。県では非常に孝行であるがための事件だとして、表彰のための旗を丁蘭の門に立てた。

圖畫父像

隋の徐孝肅は早くに父親を亡くして父親の姿を知らなかった。大きくなると、母親に父親の姿を聞いて、画家を傭ってその姿を描かせ、家の廟に祭った。母親に仕えること数十年、徐孝肅が怒りの色を見せるのを使用人達が見る事は無かった。母親が亡くなると、あかざの葉っぱなどを食べ、水を飲んで冬でも単衣の衣を着て、痩せ衰えて骨が見えるようであっり、見る者は痛ましく思わない者はいなかった。

夢見母像

唐の劉師貞は字を文通といい、幼い時に母親を亡くした。大きくなって、母親の命日が来ても母親の姿が分からないので、寝食を忘れて一日中泣いていた。すると、夢に母親の姿があらわれた。目覚めるとすぐに木でその像を作った。その像を敬う事、生きている母親に仕えるようであった。

攀栢而號

魏の王襃6043は字を偉元といい、父の儀は文帝の司馬の官であったが、無実の罪で殺されてしまった。王襃6043は、魏の都に背中を向けて暮らし、朝廷の臣下でないことを示した。墓のそばに庵を作り、朝晩拝んで柏の木に向かって涙を流した。涙は木にかかって、とうとう木が枯れてしまうほどであった。また、王襃6043の母は、雷が嫌いで、非常に恐れた。王襃6043は雷が鳴る度に墓に行き、私はここですよと言った。

敗屋不葺

南宋の何子平は、母親を亡くして八年、未だに葬式をあげる事ができなかった。そのため、昼夜泣き続け、冬でも暖かい衣類を着る事はせず、夏でも涼しい日陰にいる事は無かった。一日に数合の米を粥にして、おかずも塩もつけずに食べた。住んでいる所は荒れ果てて風も日の光もさえぎる事はできなくなっていた。兄の子伯興は、屋根を葺こうとしたが、何子平は承知しなかった。何子平は「私は未だに親の葬式もあげられない天下の罪人にすぎない。どうして屋根を葺く事ができようか」と言った。會稽の殿様の蔡興宗はこれを聞くと非常に褒めて、墓を作ってやった。

隣母輟食

晋の王隱之は字を處口|黒2229といい、七歳の時に父を亡くし、その葬儀を行った。王隱之は嘆き悲しみ、礼に定められている以上であった。号泣する度に周りにいる人はもらい泣きをした。隣に住んでいる太常の韓康伯の母親は賢明な女性であり、泣き声を聞く度に食事を止めた。これがために悲しみを康伯にいい、「お前が人材を登用できるようになったら、このような人を登用するのですよ」といった。後に韓康伯が人材登用官の吏部となると、王隱之を清級の役人に登用した。

鄰里輟社

魏の王修は、七歳の時に、母を亡くした。その日は村祭の日であった。翌年、同じように村祭の日がやってくると、母を亡くしたと言う思いで一杯になった。このため、村では村祭をやめた。

捫瘡輒哭

宋の寇準は若い時に、ちょっとした礼儀や思いやりも覚えないで、鷹や馬を偏愛していた。母親は、厳格な人でったので、寇準の行いに憤り、はかりを持ち上げて投げ付けた。はかりは、寇準の足に当たり、血が流れた。そこで、礼儀を学ぶ事にしたが、高い身分になった時には既に母親は亡くなってしまっていた。寇準は、傷跡を撫でる度に泣いた。

飮酒不醉

宋の蔡齊は仁宗の時代に濟州の副知事となった。毎日、濃い酒を飲み、しばしば酔っぱらった。母は既に高齢であったが、この事を非常に気に病んでいた。ある日、友人が尋ねて来て、諷刺の詩を作った。「皇帝の恩義は重く、首席を選んだ。慈母は年降り、鶴のように白い髪は山のようである。主君の寵愛、母の恩、どちらも未だ報いられていない。酒で病気になったら後悔はいかばかりだろうか」蔡齊は飛び起きて感謝した。これから後、客との酒盛りでなければ酒に向かい合う事はせず、死ぬまで酔っぱらう事はなかった。

聞雷輒泣

後漢の蔡順の母は雷が大嫌いであった。亡くなった後、葬式を出さずに家に安置していた。雷が鳴る度に、蔡順は急いで家に帰って泣きながら蔡順はここですよ、蔡順はここですよといった。後に、東の家から火事が出て蔡順の家に燃え移ろうとした時、蔡順は、母親の棺に伏せて大声で泣き、逃げ出すよりも母親の棺と一緒に焼け死のうとした。ところが、火は蔡順の家を飛び越えて隣の家に燃え移った。

遇石不踐

宋の徐積は、三歳の時に羅城県の長官であった父を亡くした。朝から晩まで床下に入り込んで父親を探している姿は涙を誘った。大きくなると、父の諱である「石」を避けて、石製のものを使わず、石に出会えば乗り越えずに回り道をした。ある人が、「天下には石が多い。にもかかわらず、遇えば必ず避けるのは孝行のなせる業である」といった。また、ある日「山に行ったらどうするのかね」と聞いた。徐積は「私は、必ず石を避けます。なぜなら、石に出会うと父の事を思い出し、胸が痛むからです。私の親であると思えば、どうして踏みつけになどできましょうか」と言った。宋の神宗は布と米を賜り、徐積が亡くなると諡に節孝先生を贈った。

望雲而思

唐の狄仁傑は字を懷英といい、井州の裁判官をやっていた。親は河陽にいた。狄仁傑はある時、太行山に登り、顧みれば白い雲がちぎれて飛んでいるのを見た。周りの者に、「私の親はあの雲の下にいるのだ」といい、親と遠く離れてしまった事を悲しく思い、しばらく雲を見ていたが、雲は何処かに去っていった。後に、狄仁傑の母親が亡くなった時に、白いかささぎが馴れてやって来るという異変が起こった。

調官不赴

宋の范純は字を堯夫といい、親に仕える事非常に孝行であった。父母共に存命であったので、任官されても任地に行こうとしなかった。親は、任地に范純を遣ろうとしたが、断っていった。「国から禄をもらうのを重んじて、軽々しく父母の元を去るものでしょうか。たとえ任地が近くても、朝晩そばに仕えると言うわけには行きますまい。」といい、最後まで父母の元にいた」。

辭官奉祖

後漢の虞言|羽6168は、字を升卿といい、十二歳の時には尚書に通じていた。幼い頃に父母を亡くし、祖母に孝行を尽していた。県の役人は、孝行な孫と言う事で推挙したところ、国の大臣は、官職を授けようとした。虞言|羽6168は断って「私には、九十歳になる祖母がいます。私でなければ、養う事はできません」といった。その後、祖母が亡くなると郎中の役人となり、登|邑6639太后は、虞言|羽6168を優秀な人物だとして、嘉徳殿で引見した。褒美を厚く賜り、永和の初めには尚書令となった。

陳情養祖

晋の季密は字を令伯といい、父は早くに亡くなり、母は再婚して出ていってしまった。季密は数年の内に母を思って病気になってしまった。祖母は劉氏といい、季密を慈しんで育てた。後に、祖母が病になると、季密は帯も解かず、薬は自分で味見をしtてから与えるようであった。蜀が滅んで、晋が立つと、晋の武帝は、季密を徴発して太子の馬洗い係とした。しかし、季密は、祖母が高齢であり、他に養うひともいないので、その旨を訴えて、職につかなかった。そこで、武帝はその誠の心を褒めて、下働きを二人贈り、祖母の衣食を公に賄った。

棄官省父

南齊の广<臾2846黔婁は孱陵の長官となって、任地に行き十年と経っていなかった。父の易は家に居たが、病気になった。广<臾2846黔婁は非常に驚き、すぐさま役人を辞して家に帰った。医者は、「もし、父親の病気の具合を知りたければ、糞を嘗めてみなさい。もし、甘ければ治らず、苦ければ治る」といった。父が大便をすると、广<臾2846黔婁はすぐにそれを採って嘗めてみた。味は、甘かった。广<臾2846黔婁は憂鬱になり、夜になると父の代わりになりたいと星に祈った。

棄官尋母

宋の朱壽昌は七歳の時に父が雍州の長官となり、生みの母親の劉氏は、嫡男の母親に妬まれて、他家に嫁いだ。母子はお互いに知らずに五十年の歳月が流れた。朱壽昌は、四方に母親を求めたが見つからなかった。血で母の画像を看板に描いた。食事には酒と肉を避けた。人がその訳を訪ねると、涙を流して、「煕寧の初めに、役人をやめて秦に行き、家族とは、母を見つけなければ再び戻らないと誓って出て来たのです」といった。次に行った桐州で、やっと母を見つけた。母親は、七十を過ぎていた。母を連れて家に帰ると、すぐに、母は亡くなってしまった。朱壽昌は泣きに泣いてとうとう目が見えなくなってしまった。雍州の長官の銭明逸は、これを聞くと、朝廷に報告した。これによって、天下の人たちはみな朱壽昌の孝行の心を知った。

求官報母

唐の任敬臣は字を希舌といい、五歳の時に母を亡くし、非常に悲しんだ。七歳の時に、父の英に「母の恩に報いようとしたら何をしたらよろしいでしょうか」と聞いた。英は「立身出世をして、名前を揚げることが孝行につながるのだ」といった。そこで、出世をすると言う志を心に刻んで、学問に励み、広くいろいろな書物を学び、極めた。そして、官吏特別任官制度の孝廉に挙げられて、著作郎となった。父が病気になると、悲しみのために三日も食べ物が喉を通らなかった。そこで、官職を辞して、父の看病を行った。その後、弘文舘学士となった。

顕忠報父

宋の楊政は字を直夫といい、父の忠は金と戦い戦死した。楊政は七歳であったが父の死を悲しむ事大人のようであった。その母は、これを奇特な事とし、「親に孝行な子は、必ず、君に忠実です。この子は、必ず家門を大きくするに違いありません」といった。その後、至って孝行であって、また、忠実な臣下として仕え、いろいろな官職へて、環慶路の安撫使となった。母を招いては、感義夫人に封じた。母が亡くなると、礼を尽した葬式を執り行った。そして、再び金と戦いに赴き、金の捕虜になる事を拒んだ。功績があったので、大尉になった。

血漬父骨

唐の王少玄の父は、戦乱で亡くなった。王少玄はわずかに十歳であったが、非常に嘆き悲しみ、父親の遺骨を探した。しかし、死体の数は多く、父の骨を見つける事ができなかった。時に、ある人が、「子供の血でもって骨を浸して滲むのが父親の骨だぞ」と教えたので、王少玄は、体を傷つけて、死体の間を歩き回り、とうとう父親の骨を見つけ、持ち帰って丁重に葬った。

身代父命

元の英宗は、生まれつき孝行であった。太子となったころ、父の仁宗が病に倒れた。英宗は十七歳であったが宮殿にいる時も憂いの色で、毎晩香を焚いて天に父親の身代わりになる事を祈った。仁宗が崩御すると、嘆き方は礼に定められている以上であった。白い服を着て、地面に寝、一日に一椀のお粥を啜るだけであった。後に、仁宗が廟に祭られると、涙を流して悲しんだ。その悲しみに周囲の人たちも感動した。

徐積號墓

宋の節孝先生として知られた徐積は、母親が亡くなると嘆き悲しんで、血を吐いて息絶えた。再び蘇ると、墓のそばに庵を結んで、三年の間筵に寝、石ころを枕とした。喪服を脱ぐ事はせず、雪の夜には、墓の上に伏して大声で寒くはないかと尋ねた。翰林であった呂湊は、庵を尋ねて大声で叫ぶことについて「死者の魂も、真夜中にこの声を聞けば徐積の為に泣くだろう」と言った。徐積は後に州学教授になったが、官舎に社を作って、父母を祭った。冬は火で温め、夏は蚊や蚋がこないように扇で煽いだ。昔好んだ事を思って、お供えをした。

張孝殉親

明の張孝は、字を有誠といった。父親が亡くなると、太行山に引きこもった。周囲六十里以内には人家はなく、墓のそばに庵を作って朝晩悲しみ、泉の水を汲んでは毎日半孟の米を煮て無理矢理食べた。四年間そうやっていたが、同郷の友人達が、帰って来るように勧めても拒否し、庵を燃やされると、地面に穴を掘ってその中で暮らした。数カ月の後に母親が病気になるとやっと帰って来たが、酒、肉を食べる事はしなかった。他の人が酒、肉を勧めると、「父親は私に儒教を教えた。しかし、私は、まだ習得していない。これは、最後まで悔やむものである」と言った。その後、正徳巳卯になって始めて肉を食べた。その二年後、母親が亡くなると、一声嘆くとそのまま死んでしまった。翰林の何太史は、その子が幼く、葬式を行えないのを哀れんで、郡の長官に言って、葬式の費用を出し、父の棺を移して、母の棺と三つの棺を並べて葬った。その門には「孝子の家」との額を掲げた。


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