斷機教子

戦国の孟軻は字を子輿といい、三歳の時に、父の激公宜を亡くした。母の仇氏は、賢明な人であった。孟軻は、成長した後、学問は終わったと帰ってきた。母は学問でどこまで行ったのかと聞いた。孟軻は、「変わってません」と言った。母は、刀で機を切り捨てた。孟軻は恐れながらなんでそんな事をしたのかを聞いた。母は、子供が学問をやめると言う事は、私にとっては布を切り捨てるようなものです。といった。孟軻はそこで朝から夜まで学問に励み、子思(孔子の孫)について学び、遂に、大賢者となった。齊、梁の国々に遊説し、萬章、公孫丑と孟子七編をなした。

斷織悟夫

後漢の樂羊子は、遠くまで師を尋ねて学んでいた。ところが、一年後家に帰ってきた。妻はなんで帰ってきたのかを聞いた。樂羊子は、遠く離れてしまったので家が懐かしくなっただけですといった。妻はすぐさま刀を出してきて、機織り機の所に走り、織物は蚕の糸から始まって、杼で一つ一つ織り上げていくものです。一本の糸から始まって遂には布となります。あなたは、学問を重ねるという美徳を積んでいる所でした。道半ばにして帰って来るのであれば私がこの布を切ってしまうのに何の異存がありましょうかと言った。樂羊子はその言葉に感激しまた出ていって七年間帰る事はなかった。

班超投筆

漢の班超は、幼い頃に人相見に「燕の様な顎、虎の様な首です。この相は遠国の殿様になる相です」と言われた。父の彪は、書き著すと筆を投げて嘆いて言った。「男子と生まれて、異国に功績を立てて諸侯の印を取るにあたって、筆や硯が必要であろうか」明帝の時に、西域に役人三十六人をつれて使いに行き、善|邑6642善、于宀/眞2665、疏勒の国々を征服し、定遠候となった。

終軍棄符

漢の終軍は字を子雲といい、十八の時に選ばれて博士の弟子となった。初めて関所を通る時に、関所の役人は、割り符を渡して「帰って来る時に、この割り符と照合するのだ」と言った。終軍は「男子たるもの、西(都)に行くのなら道中割り符を棄てるものです」と言い、割り符を棄てた。終軍は長安に行き、謁者の役についた。朝廷の使いとして、国々を回ったが、かの関所を通る時にあの役人が覚えていて「ああ、あの割り符を棄てた人ですよね」と言った。

改勵除害

晋の周處は字を子隱といい、腕力が非常に強かった。ちょっとした礼儀作法さえも覚えないので、村人は困っていた。人々が自分を嫌っているのを知って憤慨して心を改めようとした。父親に、「今年は豊作です。どうして楽しまないのですか」と言った。父親は「三つの害悪が除かれていない。どうして楽しむ事ができようか。南山の白額の虎、長橋下の蛇、そして、お前の合わせて三つの害悪だ」と言った。周處は「解りました。私がその害悪を取り除いてあげましょう」といい、山に入って虎を射殺し、水に入って、蛇を捕らえて殺し、自らは学問を好むようになり、義烈の心を持つようになり、忠臣の物言いとなり、数年にして州の役人となった。

運甓不倦

晋の陶侃は字を士行といい、広州の刺吏となった。平穏ならば、朝からしきがわらを外に運び、夕方になると中に入れた。ある人が、「なんでそんな事をやっているのですか」と聞いた。陶侃は、「禹王は聖人であって、しかも、寸暇を惜しんだ。普通の人は、よりいっそう寸暇を惜しまなければならない。どうして、のんびり遊んでいられようか。生きている間に何らの益がなく、死んでも後世に名を残さない、これは、自分から自分自身を捨て去るようなものである。」志を励まし、勤めに励む事このようであった。後に、八州の都督となり、長沙公となった。

感鍼卒業

唐の李白は字を太白といい、少年の頃から学問を学んだ。学問半ばにして、学業を棄てて帰ろうとした。道中一人の老婆が鉄の棒を磨いているのに出会った。李白は、老婆に「何をやっているのか」と尋ねた。老婆は「針を作ろうとしているのですよ」と答えた。李白は、その言葉に感動し、元来た道を帰って学業を終えた。長安に登って、賀知章に会い、自分の文章を見せた。賀知章は、その文章を見て感嘆して「これは、仙人の書いたもののようだ」といった。李白は、玄宗に認められて、翰林の役人となった。金鑾殿で、皇帝自ら羹を調理したり、楊貴妃が、硯を捧げたり、高力士が靴を脱がせたりといった寵愛を受け、人々が羨むようになった。

感父力學

五代の劉賛の父の玉|比4365は縣令であった。劉賛が初めて学問を始めるにあたって、青布衫襦(単衣の衣)を使わせた。また、食事の時には、玉|比4365は肉を食べ、劉賛には粗末なものを与えた。玉|比4365は、「肉は自分で稼いでいるものの食べ物である。もし、お前も肉を食べたいと思うのなら、学問を修めて、早く稼げるようになるのだな。私の食べ物はお前の食べ物ではない」といった。これで、劉賛は大いに奮起し、進士となった。

鐵硯志堅

宋の桑維翰は醜く身長は低く顔は長く自分で鏡を見ても変だと思う様な容貌であったが「七尺の体は一尺の顔に及ばない」と言った。何度も進士に推挙されたが、試験官が桑維翰の名字が「喪」と同じ読みであるのを避けて採用しなかった。また、役人を目指すのをやめる様にすすめられもしたが桑維翰は鉄の硯を鋳て示し、「この硯に穴があいたら変えましょう」と言った。その後進士に及第しや。その志はこのように堅かった。

邑官有慕

宋の張絳は家が貧しく、本を読む事を知らず、市場で働いていた。ある時、村役人がなにかを唱えている所に出くわした。張絳は、「どうしてそのような事が言えるのですか」ときいた。村役人は「本を読んだからさ」といった。張絳は、一念奮起して学問を修め、伊川程先生に習い、伊川学派の学問をならった。


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